この裁判は何を残したか

26日の朝、前日までと同じ時間に目覚めてしまった。急ぐ必要はないが寝直すこともできず、結局、非常にのんびりと荷物をまとめた。山の手線で品川から東京に移動し、八重洲のフーディストで蝦夷地の産品を軽く一抱えほど買い込んだ。実家で母親と、端から食べ散らしてみたが、蝦夷地恐るべし。

郡山で新幹線から在来線ら乗り換えるのだが、その10分ほど前から猛烈な睡魔が。ふらふらと足元も覚束ないまま何フロアか階段を下り、在来線の固くて狭い座席に座り込み、気付いたら終点直前だった。疲れていたんだとしみじみ。そろそろ後身に道を譲るべきか。

1週間ちょっと留守にしただけなのに、私の部屋は、猫達が汚し放題に汚してあった。寝られるように片付けだけで、存分に疲れた(ToT)。


去る20日、福島地裁で無罪判決が言い渡された大野病院事件に関し、地検が控訴を断念するというニュースを、夕方のローカル枠で地元民放各社が流した。無罪という判決はいたって妥当であり、これを覆したいなら事後立法でもしなければ無理だ。地検の判断も至当と言えるが、それでは「起訴」という判断には無理はなかったのか。

遺族の心中は察するに余りある。真実を知りたいと思うのは当然だし、それを「権利」として主張しなければならないとしたら、説明義務を負う医療関係者は責められてしかるべきである。だが、医師は患者に「完治」を請け負うわけではない。不幸な転帰を迎えることが民事刑事の責任に直結するというのは乱暴に過ぎる。また、医師が完全な無答責を求めるというのも不見識甚だしい。

被害者の無念、遺族の悲しみと産科医療崩壊の代償が、第三者機関設置への「議論」が起こったことだとしたら、あまりにも犠牲が大き過ぎる。第三者機関の設置は勿論だが、医療者と患者の間に、立場の違いを越えたコミュニケーションを確立することが喫緊の課題といえよう。

そしてもうひとつ。いかに遺族の処罰感情が強かったからとはいえ、被害者の死亡から2年以上たった2006年の暮れになって、県警、地検が逮捕を強行しなければならなかったのは何故か。無罪判決が確定しても、捜査関係者も本部長賞を貰った署長も罰せられることはない。だが、この逮捕、起訴で失われたものは余りにも大きいのだ。何故なのか。真相を知りたい。

二つの判決

8日金曜日、お盆休み前最後の平日に、東京と甲府で刑事事件の判決があった。

例のストーカー判事一件の判決公判で、甲府地裁は被告人に懲役6月執行猶予2年の有罪判決を言い渡した(ソース)。裁判の進行に関する感想、ないし疑問は既に述べたが、判決は予想通り、ほぼ「極刑」。どこから見ても裁判員制度を意識しまくった裁判だったが、これがストーカー禁止法違反行為についての「先例」となるなら、「思慮を欠いた(本人コメント)」この判事、恐らくはこの先、弾劾裁判所で罷免されるであろうこの判事も、以って瞑すべしというべきである。

ストーカー行為は一見軽微であっても、より重大な結果を招来する危険は甚だ大きい。最初に事件の申告を受ける警察を始め関係機関には、本裁判を教訓に、厳格な対応を期待したい。

二つめは、東京地裁で言い渡された、前福島県知事に対する収賄事件判決である。

被告人は早々に控訴の意思を示しており、事件はまだ長引きそうだが、福島県民にとって、「有罪判決を受けた二人目の知事」という事実は重い。被告人の2代前、第4代知事木村守江が、全国知事会長の重責を負う身でありながら、建設業者から賄賂を受け、職を失った。公選知事が瀆職で訴追されるという、県民にとってこの上ない不名誉が悪夢のように蘇ったのだ。

被告人(恐らくまもなく控訴人)には、無罪推定が働くが、自らの権力に近親者を自由に接近させたことについて、まだ反省の弁はない。名望家が地域のボスとして君臨できた時代は遥か過去なのだと、いい加減に気付いたらどだろうか。気付くくらいなら、縄目の恥辱を受けたりはしないか。

罪と罰の均衡

最高気温のニュースで「甲府」が現れるようになった。百葉箱の中で37度を越えるということは、普通に人が暮らす環境では、体感で40度を越えるということか。つい先日、気象台の発表が35度だった日の昼下がり、拙宅ベランダの日陰では38度を記録した・・・。

夏向きの真空管アンプ計画は、ほぼ予想通り来年まで繰り越し。作りかけが2台、計画中が2台、改修待ち1台を放置して、夏の休暇と巡業が目前に迫ってきた。実家用に1台、明日の午後くらいまでに取り掛かっている仕事が片付けば、やっつけ仕事で組み上げるのだが、最大の敵は暑さ。既に負けは確実か。


金曜日、改修中の甲府地裁には200人以上の傍聴希望者が集まったとか。現役判事のストーカー規制法違反事件初公判だ。公判の模様は各マスコミが総力を挙げて報道してくれたので、内容の確認は至って容易。ネットで探すと、産経が非常に力を入れて書いている

被告人の行動は批判されてしかるべきである。酌むべき情状の一片も見当たらない。愚かと言うも疎かである。だが、この日の法廷に違和感を覚えたのは、私だけではないのではなかろうか。

被害女性の処罰感情を軽視するものではないが、本件は、どう考えても略式で片付く程度の軽微な事件だ。正式裁判に持ち出すにしても、即決手続で処理可能な簡単な事件だ。まぁ、当初、被告人が構成要件に当たる「恋愛感情」を否定するなどという姑息な態度を取ったからかもしれないが、法廷は、同程度の事件としては最も長い手続きを行った。ここで裁かれているのは、ストーカーという迷惑千万な行為ではなく、判事という身分、元甲府地家裁都留支部長という役職が裁かれているような気がしてならない。

被告人の行動は言語道断だが、ストーカーは身分犯ではない。犯行によって裁判官に対する市民の信頼を損ねたとはいえ、最大限の見せしめ的「引き回し」には、疑問を抱かざるをえない。同人は、既に罷免を覚悟しているようだし、仮に罷免されなくても、被告人の入会を認める弁護士会があるとは思えないから、法律家として生きていくことはできない。前途は真っ暗、社会的制裁は十二分だと思う。

とはいえ、間違っても被告人に同情したり、行動を正当化しようと試みているのではない(事例が事例だけに、表現も慎重にしないと・・・)。だが、名もなき中年親父が歳の離れた女性に熱を上げ、関係が上手くいかないと見るや、見境もなくメールで嫌がらせをする、という行動が起きたとしよう。その時、そもそも警察は被疑者を逮捕するか。仮に逮捕されたとして、検察官は起訴するか。本件と同じように正式裁判で裁こうとするか。桶川の悲劇は極端にしても、今日、警察がどの程度ストーカー犯の捜査に動けるだろうか。メールと無言電話だけで。

下山判事は、如何に非難されても反論などできようはずがない。だが、有罪確定までの手続き全体を通じて、他の同種事例との均衡を失するほど重く扱われる必要もない。法定刑を引き上げるなどということはあり得ないが、手続きで存分に加重するのは、いかがなものか。

裁判員制度導入まで1年を切りながら国民の理解が進んでいるとはいえず、法曹の増員に対しては弁護士会が文句を言いだすような、そんな状況でなくても、同様に最大限重い手続きを採用したかどうか、疑問なのである。

ある一審判決

有明海の漁業被害で開門命令・佐賀地裁判決

正直、驚いた。莫大な税金を投入した国家プロジェクトは、どれほどの利権を生むのか知らないが、一度走り出したらブレーキの壊れた機関車のように、終点の車止めに体当たりするまで止まらない。あまりの破壊力に、線路脇にはぺんぺん草一本生えないのではないかとすら思う。

科学的な分析を理解する頭はないが、轟音をたてて水門が閉っていく場面をテレビで見て、背筋が寒くなった。これは間違いだと直感した。少なくとも、減反と外米輸入を強行しながら干拓地を作るという明らかな矛盾を、「始めちゃったから」という以上のまともな理由で説明できる者は一人もなく、そして豊壌の海は消えた。

消えた海が蘇ることがあるのかどうか、分からないが、「水門を開け」などという判決が出るとは思わなかった。まだ一審だし、総理の英断で公共事業の間違いを認めて控訴断念なんて、フジテレビ以外の局では流れないニュースだから、諌早の海はまだまだ楽観はできない。でも、この小さな裁判所の判決が蟻の一穴にならないとも限らない。

地裁レベルでは、なかなか考えさせられる判決が出る。これが高裁に上がると、住民訴訟砂漠、というイメージがあるが、やはり人事構成の問題だろうか。住民訴訟が原則住民敗訴という流れに落ち着くのは、石田和外が第5代最高裁長官に就任してからだといわれる。最高裁からリベラル色が消え、高裁が露骨に最高裁を見つめるようになって以降、国を相手取っての裁判は、最終的に非常に高い壁に遮られてきた。そしてごく近年に至り、最高裁の論調に微妙な変化を感じるよことがある。

蟻の一穴が、不必要に丈夫な壁を壊す日が来るかもしれない。

当面の関心事

・お世話になっている先生から、『山梨交響楽団定期演奏会』のチケットを頂戴したので、有り難く聴かせていただいた。梨響はアマオケだがレベルはなかなかのもので、ブルックナーのロマンティックなどという、アマチュアには相当厳しいプログラムに果敢に挑んでいた。アマ固有の弱点も見えるが、是非頑張って上手くなってもらいたいものだ。

・服用中の薬に起因するんじゃないか、と思われる「ボーッ」とした感覚だが、どうもすっきりしない。もしかして、これが常態で、冴えていたことなんか無かったんじゃなかろうか、と考えるとちょっと怖い。

下山判事の保釈申請が却下された。そもそも判事が被告人になることが希だが、最近まで所属していた甲府地裁に保釈を却下されて、少しは自分のやったことの愚かしさに気づいただろうか。容疑を否認しているようだし、かなりの強弁を繰り替えているようだから、懲役以上の重罪犯なら間違いなく保釈されないだろう。だが、「ストーカー禁止法の初犯だからどう間違っても罰金止まり」などと都合のいいことだけを考えての否認だとすると、随分高くつく。

犯罪の増加、悪質化を感じさせる兇悪事件の頻発で、日本社会では今、犯罪者への憐憫の情が薄れてしまっている。犯罪にいたった個々の事情は(面白くないのか)報道されず、結果の兇悪さばかりが喧伝され、そのため、人と罪とを同時に憎むのが通例だ。そして公務員の職務に関する事柄なら、過失ですら憎悪の対象となる。このあたりは、社会保険庁が東の正横綱、国土交通省道路事務所が西の正横綱で、厚生労働相一門と財務省一門が有力力士を輩出している。しかも全部日本人だ。些細なミスでも下手な隠しだてをして、憎悪の対象になってくれるところが、学習効果の低さが見えて楽しいと言えば楽しい。

公務員は「完璧が当然」と看做され、減点法でしか評価されない気の毒な存在だ。プラス評価のゆとりを国民から奪ったのは公務員の総元締たちだから、国民を恨むのは筋違いだが、今回は、もっとも厳格であるべき裁判官の破廉恥はなはだしい犯罪だ。ここで中途半端な処置でお茶を濁したら、来年の裁判員制度はどうなるか、火を見るより明らかだろう。

甲府地裁は現在立替中で、ぱっとしないプレハブの仮庁舎で執務が行われている。まだ一度も傍聴したことがないが、時間があったら傍聴券を求めて列に並んでみるか(前任大学時代はマスコミさんから傍聴券を貰えたこともあったのに、ここではただの人だから無理か)。これまで座っていた場所から真正面の数段低い位置に立たされた被告人が何を言うのか、直に聞いてみたい。そして、証拠として出てくることは必至の、若者のフリをして妙な語調になったメールを、検察官がどんな顔をして読むのか、見てみたい気がする。とても気の毒だ。もしも私が検事だったら、朗読途中に情けなくて涙が出てくるだろう。

人として既にダメなオヤジが公務員だったら、国民の目は二重に厳しい。

「弁護士ゼロ地域」の解消

この件に関して、日弁連会長のコメントが発表された。「司法」という「サービス」を拡充するために不可欠な弁護士増員だが、今回、裁判所支部(全国で203ヶ所)の所在地でありながら、常駐する弁護士のいない「弁護士ゼロ地域」がなくなったという。御同慶の至りである。1996年から12年かけて、47ヶ所の「ゼロ地域」が解消されていった。関係各位の御努力に心からなる敬意を表する。

「無医村をなくそう」という国家的事業と同様に、重要な社会的意義のある「無弁村」撲滅は、しかし、非常に地味に、静かに進行したようだ。人は、少なくともこの日本で、医療と無縁のまま生涯を終わることはできない。だが、法律家と会話することなく天寿を全うすることは、決して珍しくない。犯罪はもちろん、紛争をともなう重大な権利の変動も経験せずに一生を送れたら、それはとても幸せであるが、決して夢ではない。この国は、地域の中で紛争を未然に防ぐとともに、発生してしまった紛争も、極力「お上の手を煩わせる」ことなく、地域の創意で解決する伝統を持っていたのだ。

「持っていた」という過去形である。今や、近隣のトラブルすら穏便に解決する術を失い、地域は単なる偶然で一致した居住地という意味しか持たない、といった有り様も散見せられる。隣近所のささいな揉め事をうまく纏めてくれる長老、ご隠居ははるか昔に消えてしまったから、公平な第三者として問題解決にあたる「司法サービス」が必要になる。しかもその「サービス」とは名ばかりで、とてもじゃないが使い難い。そもそも「司法サービス」以前に、弁護士を始めとする街の法律家の「サービス」を受けないと、「司法サービス」まで辿りつかないのが現状だ。裁判所のある隣町まで出かけても、弁護士がいないんじゃ、いつになったら裁判というサービスを受けられるのか。

司法試験合格者の大増員は、どうやら消えたようだ。粗製濫造は断じて断りだが、相談する弁護士を選べないという状況は望ましくない。横丁のご隠居のように、街の人々のちょっとした困り事にも気軽に智恵を貸してくれる、そんな街の法律家が増えることを念じて止まない。裁判所と支部のない市町村は、ほぼ例外なく「無弁市町村」だが、司法サービスが不要なほど、古き良き日本が残されているわけではないのだ。

些か異議あり

退院して一人暮らしに戻った母を見舞うため、週末は会津で過ごした。退院直後は真っ直ぐ歩けないほどの衰弱ぶりで、親戚知人縁故関係手当たり次第に、様子を見てくれるよう頼んで回ったが、今回は随分と回復したようで、正直ほっとした。もっとも父に続いて母の大病は、私には相当のストレスだったようで、残念ながら体調が思わしくない。医者通いは望ましくないのだが。

久しぶりのエントリがこの記事へのコメントとは、少々複雑。

<長崎市長射殺>死刑判決の要旨(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
昨日の午前中、実家で母と軽い食事をしている時に、ニュースで「主文後回し」が報じられた。量刑相場から死刑はないだろうと思いこんでいたから、判決理由を詳しく知りたいな、などと考えていたら、老母が言った。「市長を殺したから死刑だが、私を殺しても死刑にはならないんだろう。なんか納得できない」。我が母ながら、なかなか鋭いことを言う。もう少し若かったら、裁判員として堂々と「正論」を吐くだろう。

甲府に移動した後に見たニュースや、今朝の新聞報道で確認したが、判決は被告人の行動を「暴力によって被選挙人の選挙運動と政治活動の自由を永遠に奪うとともに、選挙民の選挙権の行使を著しく妨害したのであり、民主主義の根幹を揺るがす犯行というべきである」と極めて厳しく指弾している。被害者が選挙運動中であったことを最大限に考慮し、犯行に「政治的意味」見いだそうとしている。が、はたしてそうだろうか。この論法だと、被害者である市長が選挙期間外の公務中に遭難した場合、選挙期間外の私用中に遭難した場合とで、犯行への評価が異なることにならないか。

以下私見だが、大前提として、本判決の結論を支持する。しかし理由は、公人に対する政治的テロ、選挙テロだった、と評価するからではない。
    1.被告人は極めて反社会性の強い暴力団の
    2.幹部構成員であり
    3.不正不順な経済的要求が認められなかったことで市長を逆恨みし、
    4.銃器を使用し
    5.多くの人々が往来する市街地で
    6.他者を巻き込む危険も顧慮せず複数回発射した
結果、被害者を死に致らしめたものである。被害者の人数に拘泥し、機械的に死刑を回避できるような事例ではない。

ここで、被害者が現職市長であり、候補者として選挙活動中だったという点を重視しすぎてはいけない。確かに、直後の選挙に与えた影響は甚大だったが、理不尽に命を奪われた被害者の選挙権、被選挙権のみが尊いというがごとき論調は、平等権を犯しかねない。本件は上記各理由をもって、十分に死刑に値する憎むべき犯罪である。被害者である市長の無念は如何ばかりであろうか。だが、自宅に籠城した暴力団員を包囲したところ、県警幹部の拙劣な現場指揮で犯人の前に身体を晒す羽目になり、結果射殺された警察官も、市長と同じか、あるいは目前で職務を果たせなかった分だけ、市長よりはるかに春秋に富む分だけ余計に無念だったであろう。抗争に巻き込まれ、果ては人違いで、兇悪な暴力団員の手にかかった名もなき市民は、犯人と接点がない分だけ、より一層無念であろう。

本件のみが、ことさらに重大な結果に至ったのではない。

釈然としない

実家に、地元自治体から19年度分の公租公課の領収通知が届いていた。固定資産税、母の健康保険税、そして父宛に住民税。引き落としは、父が亡くなった2週間後から始まっていた。課税基準日は1月1日だから、半年後に死亡した父に課税されるのは仕方がない。父は5年以上煩っていたため、家計の管理は母名義の口座で行うよう変更しておいた。父名義の銀行口座なら引き落としができない時点で何か言ってきただろうが、母の口座からだから、あっさりと引き落しが完了し、母が入院のため留守している間にその旨通知が届いた。

制度上、何等の問題もない行政行為だが、この通知を母に見せるのは止めておこうか。退院して家に戻ればすぐに溜まった郵便物を開くだろう。その時こんな通知が目に入ったら、と思うと情において忍びない。

ガソリン税が囂しい。「日本のガソリンは税金のせいで高い」とは、およそ誰でも知っている話だが、実際どの程度税金なのかは知られていなかった。それが今回のドタバタではっきりと知られてしまった。禁断の果実の味を知ってしまった気分だ。道路整備に金が必要なのは誰でもわかる。だが、「地球が滅亡するまでかかっても絶対に償却できそうもないガラガラの高速道路」なんか作ってもらっても、地権者と土建屋と天下り役人以外は喜ばない。まして、次々と見つかる無駄づかいを見れば、増税止むなし、と心底思える人の比率は否応なく下がる。

ガソリンをはじめ、ナシでは済まされないエネルギーの値上げが迫ってくる。かつての狂乱物価の再来かと思うと、実に恐ろしい。年金暮らしの母は大丈夫だろうか。小麦もバターも、どうしようもないレベルまで上がっていきそうだが、「バター輸入枠前倒し」以外に、政府が対応策を打った、あるいはせめて検討する、といった話が全く聞こえないのは何故か。

花を叩き折るオヤジの姿が放映された。情けなくて涙も出ない。花盗人が咎められなかったのは何故か。愛でる心の一片もなく傘を振り回すオヤジの行為は、殺戮に等しい。抱卵中の野鳥を打ち殺すに至っては、もはや言葉もない。加害者はきっと、この話しを聞いて心を痛めたほとんどの日本人に共通するイメージで間違いないだろうが、そんな奴らを産み出したのが我々の日本の社会かと思うと、切なさを通り越す。

どうしてこんなに、徹頭徹尾、優しくない国になってしまったのだろうか。「道徳」が嫌いな方々も、「人情」なら文句は言うまい。世の人情が紙よりも薄くなってしまったのなら、学校で教えてでも次の世代に伝えなければならない。このままでは、国の行く末は真っ暗に思えるのだ。

何故、説明がないのか

裁判員法が来年5月21日施行と決まった。(参考

法成立時に設定した期限ギリギリに施行となったが、ギリギリまで待たねばならない状況は決して良好とはいえまい。「参加したくない」という声はいくらでも聞こえてくるし、辞退の要件はどんどん拡大されていく。

何故、こんこな制度が必要で、何故こんな制度をつくったのか。あと一年で制度が動きだすというのに、誰も責任持って説明しようとしないのは何故か。

立法、行政、司法の三権のうち、もっとも民意、言い替えれば主権者たる国民から遠いのが司法だ。その権力の発生時に民意を全く反映しないし、かすかな罷免権も実行されたことがない有り様では、民主主義が聞いて呆れる。いやしくも民主主義国であるならば、三権は総て国民に由来するのであり、その意思を全く反映しない組織機構が権力の三分の一を行使する現状は、非常に問題である。だから、国民の司法参加が必要なのだ。国民の司法不信は、「こんなに酷い事件なのに何故死刑じゃないのか」といった、刑事訴訟の結果に対する感覚のズレから生じた部分が大であるが、世論に対して「法律はこうだから」としか発言しなかった政府、司法関係者は民主主義を無視している。国民が白というなら、黒と定めた法律を白に改正することが民主主義なのだ。司法の現場に国民が関わることで、時代に応じた国民感情が裁判に反映し、あるいは法改正や新たな立法に繋がることが期待される。

ところが、裁判員制度にはまた非常に問題が多い。平たく言えば不十分過ぎる。このままでは、国民が司法に参加し、主権者として重要な職責を果たすことは期待できない。が、裁判員が実質的に機能しなくても、結局、職業裁判官の手によって、事件はこれまで通りに処理される仕組みになっている。

国民感情からズレた判決を書く司法に対する不信は確実に存在するが、そんな国民に対する司法側からの不信のほうが、遥かに強いのではないか。アメリカ型陪審制度と比較すれば、日本の裁判員の権限の弱さと、義務の重さがよくわかる。形だけ「国民の司法参加」システムを作り、従来通りの司法の運営にお墨付きを与えることだけが目的なのではないか、と勘繰りたくなる。理念と現実を結びつけることができる必要十分な説明がなされていないからだ。

後期高齢者医療制度も、暫定税率も、年金の諸問題にしたって、制度の創設、改変、存続の必要性について、誰か責任ある立場の人間が噛み砕いた説明をしたか。構造改革ということばを金科玉条にした内閣があったが、その必要性、改革後の将来のビジョンについて、ただの一言の説明も無かった。

もし、伝統に則って国民を愚昧視しているのなら、国会議員も役人も、今すぐに職を辞せ。

中庸なき国

殺伐としたニュースが後を絶たない。加害者にいかほどの苦悩があったか知らないが、あまりに重大な結果はあまりに唐突に現れた感がある。

沖縄戦集団自決訴訟判決要旨を読むと、やはり唐突な、中間省略的な空気を感じる。以前のエントリでも書いたが、裁判というシステムの制約上、白黒をつけざるを得ないとはいえ、こんな問題を法廷に持ち出さなければならないというのは、歴史学の貧困に起因するとも言える。皇国史観が一夜で吹き飛び、怒涛のごとく押し寄せた唯物史観が雲霞のごとく空を暗くした時代、新旧両極端な思想的バイアスをもってひとつの事象を見たら、どうなるか。いずれにも与しない理性的、合理的な発想は、右からも左からも攻撃された。

判決は白黒をつけたが、本件について、なんらの解決をもたらすものではない。真実は(おそらく)白でも黒でもなく、濃い灰色のなかに白い点があったり、白い塊の中に黒っぽいしみがあったりするのだろう。

在宅時はもっぱら、音楽を流しているから、テレビの視聴時間がどんどん減っている。当然、観てはいないのだが、TBSがとんでない番組を流したらしい。会津若松市長が抗議文を発表した。

TBSが流したクイズ番組は、戊辰戦争最大の籠城戦である鶴ヶ城攻防戦について、会津藩が降伏したのは城内でし尿の処理ができなかったから、との珍説を正解にした、というのだ。2ヶ月の籠城の間、雨あられと襲いかかる砲弾の下ではし尿の運び出しなどできるはずもなく、城内に穴を掘って投棄した、といった話を、籠城経験者からの聞き書きなどで読んだ記憶がある。出題者はおそらく、そのへんの話を中途半端に聞きかじり、「正解」を作り上げたのだろう。

自分の目先にあるものだけですべてを決することができるほど、この世の中はシンプルではない。深く考えなくても目に飛び込んでくるようなことは、往々にして極論だ。
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