2008.08.28 木曜日 21:21
この裁判は何を残したか
26日の朝、前日までと同じ時間に目覚めてしまった。急ぐ必要はないが寝直すこともできず、結局、非常にのんびりと荷物をまとめた。山の手線で品川から東京に移動し、八重洲のフーディストで蝦夷地の産品を軽く一抱えほど買い込んだ。実家で母親と、端から食べ散らしてみたが、蝦夷地恐るべし。
郡山で新幹線から在来線ら乗り換えるのだが、その10分ほど前から猛烈な睡魔が。ふらふらと足元も覚束ないまま何フロアか階段を下り、在来線の固くて狭い座席に座り込み、気付いたら終点直前だった。疲れていたんだとしみじみ。そろそろ後身に道を譲るべきか。
1週間ちょっと留守にしただけなのに、私の部屋は、猫達が汚し放題に汚してあった。寝られるように片付けだけで、存分に疲れた(ToT)。
去る20日、福島地裁で無罪判決が言い渡された大野病院事件に関し、地検が控訴を断念するというニュースを、夕方のローカル枠で地元民放各社が流した。無罪という判決はいたって妥当であり、これを覆したいなら事後立法でもしなければ無理だ。地検の判断も至当と言えるが、それでは「起訴」という判断には無理はなかったのか。
遺族の心中は察するに余りある。真実を知りたいと思うのは当然だし、それを「権利」として主張しなければならないとしたら、説明義務を負う医療関係者は責められてしかるべきである。だが、医師は患者に「完治」を請け負うわけではない。不幸な転帰を迎えることが民事刑事の責任に直結するというのは乱暴に過ぎる。また、医師が完全な無答責を求めるというのも不見識甚だしい。
被害者の無念、遺族の悲しみと産科医療崩壊の代償が、第三者機関設置への「議論」が起こったことだとしたら、あまりにも犠牲が大き過ぎる。第三者機関の設置は勿論だが、医療者と患者の間に、立場の違いを越えたコミュニケーションを確立することが喫緊の課題といえよう。
そしてもうひとつ。いかに遺族の処罰感情が強かったからとはいえ、被害者の死亡から2年以上たった2006年の暮れになって、県警、地検が逮捕を強行しなければならなかったのは何故か。無罪判決が確定しても、捜査関係者も本部長賞を貰った署長も罰せられることはない。だが、この逮捕、起訴で失われたものは余りにも大きいのだ。何故なのか。真相を知りたい。
郡山で新幹線から在来線ら乗り換えるのだが、その10分ほど前から猛烈な睡魔が。ふらふらと足元も覚束ないまま何フロアか階段を下り、在来線の固くて狭い座席に座り込み、気付いたら終点直前だった。疲れていたんだとしみじみ。そろそろ後身に道を譲るべきか。
1週間ちょっと留守にしただけなのに、私の部屋は、猫達が汚し放題に汚してあった。寝られるように片付けだけで、存分に疲れた(ToT)。
去る20日、福島地裁で無罪判決が言い渡された大野病院事件に関し、地検が控訴を断念するというニュースを、夕方のローカル枠で地元民放各社が流した。無罪という判決はいたって妥当であり、これを覆したいなら事後立法でもしなければ無理だ。地検の判断も至当と言えるが、それでは「起訴」という判断には無理はなかったのか。
遺族の心中は察するに余りある。真実を知りたいと思うのは当然だし、それを「権利」として主張しなければならないとしたら、説明義務を負う医療関係者は責められてしかるべきである。だが、医師は患者に「完治」を請け負うわけではない。不幸な転帰を迎えることが民事刑事の責任に直結するというのは乱暴に過ぎる。また、医師が完全な無答責を求めるというのも不見識甚だしい。
被害者の無念、遺族の悲しみと産科医療崩壊の代償が、第三者機関設置への「議論」が起こったことだとしたら、あまりにも犠牲が大き過ぎる。第三者機関の設置は勿論だが、医療者と患者の間に、立場の違いを越えたコミュニケーションを確立することが喫緊の課題といえよう。
そしてもうひとつ。いかに遺族の処罰感情が強かったからとはいえ、被害者の死亡から2年以上たった2006年の暮れになって、県警、地検が逮捕を強行しなければならなかったのは何故か。無罪判決が確定しても、捜査関係者も本部長賞を貰った署長も罰せられることはない。だが、この逮捕、起訴で失われたものは余りにも大きいのだ。何故なのか。真相を知りたい。