何故、説明がないのか

裁判員法が来年5月21日施行と決まった。(参考

法成立時に設定した期限ギリギリに施行となったが、ギリギリまで待たねばならない状況は決して良好とはいえまい。「参加したくない」という声はいくらでも聞こえてくるし、辞退の要件はどんどん拡大されていく。

何故、こんこな制度が必要で、何故こんな制度をつくったのか。あと一年で制度が動きだすというのに、誰も責任持って説明しようとしないのは何故か。

立法、行政、司法の三権のうち、もっとも民意、言い替えれば主権者たる国民から遠いのが司法だ。その権力の発生時に民意を全く反映しないし、かすかな罷免権も実行されたことがない有り様では、民主主義が聞いて呆れる。いやしくも民主主義国であるならば、三権は総て国民に由来するのであり、その意思を全く反映しない組織機構が権力の三分の一を行使する現状は、非常に問題である。だから、国民の司法参加が必要なのだ。国民の司法不信は、「こんなに酷い事件なのに何故死刑じゃないのか」といった、刑事訴訟の結果に対する感覚のズレから生じた部分が大であるが、世論に対して「法律はこうだから」としか発言しなかった政府、司法関係者は民主主義を無視している。国民が白というなら、黒と定めた法律を白に改正することが民主主義なのだ。司法の現場に国民が関わることで、時代に応じた国民感情が裁判に反映し、あるいは法改正や新たな立法に繋がることが期待される。

ところが、裁判員制度にはまた非常に問題が多い。平たく言えば不十分過ぎる。このままでは、国民が司法に参加し、主権者として重要な職責を果たすことは期待できない。が、裁判員が実質的に機能しなくても、結局、職業裁判官の手によって、事件はこれまで通りに処理される仕組みになっている。

国民感情からズレた判決を書く司法に対する不信は確実に存在するが、そんな国民に対する司法側からの不信のほうが、遥かに強いのではないか。アメリカ型陪審制度と比較すれば、日本の裁判員の権限の弱さと、義務の重さがよくわかる。形だけ「国民の司法参加」システムを作り、従来通りの司法の運営にお墨付きを与えることだけが目的なのではないか、と勘繰りたくなる。理念と現実を結びつけることができる必要十分な説明がなされていないからだ。

後期高齢者医療制度も、暫定税率も、年金の諸問題にしたって、制度の創設、改変、存続の必要性について、誰か責任ある立場の人間が噛み砕いた説明をしたか。構造改革ということばを金科玉条にした内閣があったが、その必要性、改革後の将来のビジョンについて、ただの一言の説明も無かった。

もし、伝統に則って国民を愚昧視しているのなら、国会議員も役人も、今すぐに職を辞せ。

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