新たなPC環境構築中
ひとつは、自宅ADSLが酷くむずかることがある。雨や風が強くなると、途端にリンク切れが頻発し、殆ど使い物にならなくなる。今月二度目の技術者派遣を受けあれこれ調べてもらっても原因がはっきりしない。屋外のどこかに水分に弱い箇所があるようだが、NTTまで1キロちょっとの銅線すべてを検査することもできず、何より、47都道府県庁所在地の中で、もっとも日照時間が短い金沢なのに、技術者が来てくれる日には何故か奇跡的に晴れ。つまり症状が出ず、原因も分からない。
で、古いマンションだから、と諦めていた光を引くよう、NTTに依頼した。首尾はそのうちこのブログで。
東風ふかば
そんな復活した町名の一つに「飛梅町」がある。いうまでもなく、京の北野から一夜で太宰府まで飛んで花をつけた、あの飛梅のことだ。場所は、金沢城址からほど近く、恐らく、藩祖前田利家が、菅原氏の末裔と称していたという話に由来するのだろう。
ネットの記事によると、「飛梅町」の復活を記念し、太宰府天満宮から金沢市に、梅の木が贈られた。贈られた梅の木は、飛梅町の金沢市民俗文化財展示館に植えられるということで、近いうちに見に行こうと思う。
でも今年は梅の開花も大幅に遅れている。東風どころか、今日も昨日も雪の空。暖かい風が吹かないから、梅ですら私を思い出してくれない、と考えると泣けてくる。
猫舎
早いのはいいことだな
横浜事件
横浜事件とはなんであったか。これを正確に定義することは、神ならぬ身には不可能であるが、非才を省みず極言するならば、「治安維持法に触れる些細な思想事犯を端緒とし、時局の悪化に強い焦りを抱いた特高警察が、自身の背後にある、より強い国家権力への恐怖から産み出した巨大な妄想」とでも言うべきものである。犯罪となる事実は皆無であるが、捜査、取調、拷問、公判は「事実」をもとに進められ、陰惨で無責任な結果のみを歴史に残した。
事件は、昭和17年9月、経済学者川田寿と妻定子が神奈川県特高警察に逮捕されたことに始まる。川田夫妻は戦前、アメリカに滞在しており、その頃の左翼的活動や、帰国の才に持ち込んだ文献が逮捕の口実となった、といわれている。この時点では、敵国アメリカに協力するスパイの摘発という色彩の方が強かったのかもしれない。
同じ頃、やはり経済学者の細川嘉六が、雑誌『改造』に発表した論文がもとで逮捕された。しかしこれも、単なる筆禍事件に終わるかと思われた。
ところが、関係者の取調を進めるうち、特高警察内部では、関係者の属するいくつかの思想性を持った組織を結びつけて「共産党再建」という壮大なストーリーが幕を開けてしまった。そのきっかけとされたのが、俗にいう「泊会談」の参加者7名を写した一枚のモノクロ写真である。細川の著書出版記念の宴会で撮られた写真に、川田の関係から捜査の手が伸びていた人物が写っていた。これ以降、細川を軸とするストーリー、あるいは「妄想」が、猛烈な勢いで膨張していくのである。被疑者49名、うち3名が獄死している。
事件の司法的処理は、敗色濃厚となった昭和20年の春以降に開始された。(思想)検事も予審判事も、暴力こそ用いなかったものの、警察での調書を確認することのみに意を用いていた、とされる。ところが、8月15日を過ぎると一変し、予審判事が拘置所に赴き、暗に執行猶予を匂わせて、事件の早期収拾を図るようになった。既に有罪となった者のほか、在監中の被疑者は長期にわたる拘禁の疲れから、弁護士の示唆に従い、いい加減としか表現できない手続に乗って執行猶予付き有罪判決を受けていった。8月下旬から9月初旬にかけてのことである。ただ一人、細川のみは予審判事の申し出を拒み、治安維持法廃止後の10月15日、免訴の判決を受けた。有罪となった元被告人らには、10月17日公布の大赦令が適用された。
この事件の最大の特長のひとつに、特高の苛烈な拷問が明らかにされたことがある。元被疑者、被告人が、特高警察官を特別公務員暴行陵虐罪で告訴したのである。告訴は軒並み、証拠不十分で取り上げられることはなかったが、一人の元被告人について、物証、人証が得られ、元特高係長以下3名が公判に附され、最高裁で懲役1年6月から1年の実刑が確定した。*1
昨日、元被告人5名に対する再審判決が出た。免訴であった。裁判官は、実質審理の上で無罪判決を求める関係者の声に対し、公訴権消滅事由がなければ(再審開始を認めた)抗告審の決定に添う判決となること、免訴でも元被告人らの名誉回復が可能であることを述べている。
無罪を求めた関係者は無念であろう。「杓子定規である」との批判も頷ける。が、現行刑訴も旧刑訴も、刑の廃止と大赦は免訴事由であって、これを覆す理論を見いだすことは困難である。ポツダム宣言受諾後、早晩廃止されるであろう治安維持法を適用して裁判を急いだことへの評価は、国家賠償を求める過程の中で問い得るものと考える。
- *1 : 我妻栄他編『日本政治裁判史録 昭和・後』参照
伊福部昭
このブログで再三取り上げている信時潔とは好対照の、恐らくは信時が好まなかったであろうタイプの音楽を書き続け、91歳の生涯を終えられた。いま、この報に接し、書架から氏の代表作の一つ、『交響譚詩』の総譜を取り出してきた。音を辿りながらページをめくる。とても難しい。冒頭からまず、拍節がつかめない。強烈な和音が鳴り響き、不安定なリズムがいつの間にか安定する。氏が追求してやまなかった、日本的でしかも原始的な音響世界が緻密に計算された技法の上に広がっている。
氏は、北海道帝大農学部を卒業し、戦前から戦中にかけて、道内で林業技師として働きながら、ほぼ独学で作曲技法を修めた。戦後は、東京音楽学校(芸大の前身)、東京音大で後身の育成と作曲とに励み、数多くの作品を世に送っている。
クラシックだけでなく、映画音楽の世界にも無数の名曲を残した。伊福部昭のオーケストラ曲やピアノ曲を聴いたことがなくても、『ゴジラ』のテーマなら誰でも知っているだろう。
音楽教育の分野では、芥川也寸志、石井真木など数多くの大作曲家を育てた。また著書『管絃楽法』は1953年初版刊行だが、今日でも定番といわれている。
今日、帰宅したら、『交響譚詩』と『日本組曲』を聴くことにしよう。
合掌。
雪、後・・・
でも昨日の午後飛び込んだ吉報に、少しだけ気分が明るくなっています。
当然、あちこち軋み始めた皇室典範改正議論にも影響が出るでしょう。どっかの政党の元党首が国会で「のりこ様」と発言したとか、妃殿下から宮様への連絡以前にマスコミが騒いだとか、最初にすっぱ抜いたのが渋谷の某放送局だったとか、予想以上に話題には事欠きません。が、皇子様でも皇女様でも、ご無事にお生まれになるまで、静かにお待ちしたいと思います。
信時潔「鎮魂頌」
国のために殉じた方々のために手を合わせるのは当然のことだ。靖国神社にお参りすることが、(戦没者の)冥福をお祈りすることになると語った。これに先立ち、麻生外相も靖国参拝に前向きな発現をし、一部野党が騒いでいる。
数年前、靖国神社遊就館で『靖国神社の歌』(NKCD-3070)というCDを買った。昨年『海ゆかばのすべて』をアップした際には失念していたのだが、このディスクに、信時潔の「鎮魂頌」という曲が収録されている。戦後の世情荒廃を嘆いた折口信夫が詞を書き、昭和34年、靖国神社創立九十年祭に際し信時に作曲を委嘱した。ディスクには、團伊玖磨指揮、東京芸大教授秋本雅一郎独唱のオーケストラ版と、團のピアノ伴奏、二期会合唱団による混声合唱版が収録されている。
この曲は、靖国神社委嘱作品であるから、当然、神道的内容を持つものであるが、詞からも、曲からも、純粋に戦没者を慰霊しようという作者の精神を感じ取ることができる。
現し世の数の苦しみ たたかひにますものあらめやという歌詞が、軍国主義日本の消長を見届けた文人の筆によって書かれたことの意義は大きい。
自然の美を称え、死者を追慕する心を柔らかな和語で綴った折口の詞に、信時は、技巧を廃し、力強さと繊細さを併せ持った美しい旋律を与えた。雄渾という評価は、信時の作品にこそふさわしい。
現在この曲は、靖国神社の例大祭で演奏される。また宮城県護国神社のHPで、楽譜の閲覧と混声合唱版の視聴が可能となっている。
故人を悼む気持ちは誰にでもあろう。ましてや、国という抗い難い存在のために非命に倒れた人を追悼するに、なんの憚りがあろうか。追悼という純粋に精神的行動の前に、政治も左右どちらの思想も無用である。
もっとも、私は靖国神社そのものには良い感情は持っていない。それは靖国が、我が会津を蹂躙した西軍戦没者の追悼施設「東京招魂社」に発するからである。