早いのはいいことだな
横浜事件
横浜事件とはなんであったか。これを正確に定義することは、神ならぬ身には不可能であるが、非才を省みず極言するならば、「治安維持法に触れる些細な思想事犯を端緒とし、時局の悪化に強い焦りを抱いた特高警察が、自身の背後にある、より強い国家権力への恐怖から産み出した巨大な妄想」とでも言うべきものである。犯罪となる事実は皆無であるが、捜査、取調、拷問、公判は「事実」をもとに進められ、陰惨で無責任な結果のみを歴史に残した。
事件は、昭和17年9月、経済学者川田寿と妻定子が神奈川県特高警察に逮捕されたことに始まる。川田夫妻は戦前、アメリカに滞在しており、その頃の左翼的活動や、帰国の才に持ち込んだ文献が逮捕の口実となった、といわれている。この時点では、敵国アメリカに協力するスパイの摘発という色彩の方が強かったのかもしれない。
同じ頃、やはり経済学者の細川嘉六が、雑誌『改造』に発表した論文がもとで逮捕された。しかしこれも、単なる筆禍事件に終わるかと思われた。
ところが、関係者の取調を進めるうち、特高警察内部では、関係者の属するいくつかの思想性を持った組織を結びつけて「共産党再建」という壮大なストーリーが幕を開けてしまった。そのきっかけとされたのが、俗にいう「泊会談」の参加者7名を写した一枚のモノクロ写真である。細川の著書出版記念の宴会で撮られた写真に、川田の関係から捜査の手が伸びていた人物が写っていた。これ以降、細川を軸とするストーリー、あるいは「妄想」が、猛烈な勢いで膨張していくのである。被疑者49名、うち3名が獄死している。
事件の司法的処理は、敗色濃厚となった昭和20年の春以降に開始された。(思想)検事も予審判事も、暴力こそ用いなかったものの、警察での調書を確認することのみに意を用いていた、とされる。ところが、8月15日を過ぎると一変し、予審判事が拘置所に赴き、暗に執行猶予を匂わせて、事件の早期収拾を図るようになった。既に有罪となった者のほか、在監中の被疑者は長期にわたる拘禁の疲れから、弁護士の示唆に従い、いい加減としか表現できない手続に乗って執行猶予付き有罪判決を受けていった。8月下旬から9月初旬にかけてのことである。ただ一人、細川のみは予審判事の申し出を拒み、治安維持法廃止後の10月15日、免訴の判決を受けた。有罪となった元被告人らには、10月17日公布の大赦令が適用された。
この事件の最大の特長のひとつに、特高の苛烈な拷問が明らかにされたことがある。元被疑者、被告人が、特高警察官を特別公務員暴行陵虐罪で告訴したのである。告訴は軒並み、証拠不十分で取り上げられることはなかったが、一人の元被告人について、物証、人証が得られ、元特高係長以下3名が公判に附され、最高裁で懲役1年6月から1年の実刑が確定した。*1
昨日、元被告人5名に対する再審判決が出た。免訴であった。裁判官は、実質審理の上で無罪判決を求める関係者の声に対し、公訴権消滅事由がなければ(再審開始を認めた)抗告審の決定に添う判決となること、免訴でも元被告人らの名誉回復が可能であることを述べている。
無罪を求めた関係者は無念であろう。「杓子定規である」との批判も頷ける。が、現行刑訴も旧刑訴も、刑の廃止と大赦は免訴事由であって、これを覆す理論を見いだすことは困難である。ポツダム宣言受諾後、早晩廃止されるであろう治安維持法を適用して裁判を急いだことへの評価は、国家賠償を求める過程の中で問い得るものと考える。
- *1 : 我妻栄他編『日本政治裁判史録 昭和・後』参照