罰当たりめ!

今度は京都で不埒者が出たらしい。つい先日、熊野古道で牛馬童子が壊され、文化への下劣な攻撃に、血圧が上がるくらい怒ったばかりなのに、そんなに私を病院送りにしたい馬鹿者がいるのだろうか。

典型的な模倣犯。耳目を集めたいが人前に顔を出すほどの度胸もない卑小なクズが、長い長い時を経て息づく人々の信仰、心など一顧だにせず、薄汚い自己顕示欲のために形あるものを壊した。ものに込められた人々の心を踏みにじった。

太宰権帥として客死した菅原道真公は雷となって清涼殿を焼き、皇位簒奪をでっち上げた時平の子分共を焼き殺した。時平の落命も、菅公の祟りといわれた。その菅公の使いであるなで牛を叩き壊したのだ。天罰は自ずから重いものと知れ。

経済が、一流?

<大田経財相>もはや「経済一流」ではない 国会冒頭演説で
経済担当閣僚から、国会の冒頭でこんな発言が出たそうな。

サブプライム問題、世界同時株安、円高、原油高。過去半年の世界の、そして日本の経済情勢を言い表す縁起の悪い言葉は、枚挙に遑がない。言って詮ないことだが、太平洋の向こう側の国では、
景気対策は効果大きい=米FRB議長、民主有力議員に表明
緊急景気対策、1000億ドル規模で調整へ=米大統領、議会幹部が協議
減税実施で合意=米緊急景気対策−ブッシュ大統領と議会
(記事は総てYahoo!ニュースから)

大幅な減税、利下げ、そして大規模な財政出動。既に十二分に後手に回っているとはいえ、これを極めて短期間にやってのけようとしている。私は歴史系の研究者として、我が国の要路者からこんな発言を聞いたことがない。聞いたことがあるはずがない。過去の不景気、恐慌の数々は総て、自然の回復力で立ち直ってきている。政策めいたものは総て場当たりで、効果的な対策が立案、実行された歴史がないのだ。
 ただ、対策の中身については、戻し減税を中心とすることでは一致しているものの、「減税は実際には全額が消費に回らない」(シューマー議員)として、民主党側は「確実に支出される」(同議員)政府公共投資の盛り込みを求めている。これに対し、共和党側からは「1990年代の日本のような効果のない対策になる恐れ」(イングリッシュ下院議員)と難色を示す声も出ている。
随分痛いことを仰しゃいますな、共和党どの。

実勢の国富を遥かに超える仮想の「富」を信じて狂奔した時代はあった。それより前、国民の不断の努力が、実感として戻ってきた時代もあった。それらは金の動きが活発だった、景気が良かった、というだけのことであって、「経済」が一流だったことはないのではないか。

ここでなお、抜本的景気対策を考えず、局部的なガソリンを火種にしようというのだから、「エコノミー」を知らぬ永田町には、つける薬はなさそうだ。となれば「経世済民」など、知る筈もないか。

テレビの存在意義

先日、当地のテレビ局関係者と話をした時、「視聴者の皆さんに、2011年で今のテレビが使えなくなるって、どの程度理解していただいているか不安です」という言葉があった。

地デジへの移行は、半世紀の年月をかけて成熟、拡大したテレビという巨大な社会的システムを根底からひっくり返す大変革だが、私にはその変革の必然性が理解できない。白黒からカラーに変わった時は、既存のシステムでも色がでないだけで根本的なところで互換性は維持されていた。しかし今回は、受像機も送信システムも、全部変わってしまう。そこまでしなければならないほど地上波デジタル方式が優れているとは、どうも思えない。

世間の受け取り方も、恐らく私と大差がないのだろう。今あるテレビが壊れたのなら、新方式の受像機を買うだろうが、不都合なく使える機械をリサイクル料を払って処分し、新しく、スケールメリットが不十分なためイヤってほど高価な新機種を買う、という行動への動機を私は持たない。

2011年7月、最寄りのNHKに電話して、「地デジ対応テレビは持っていない。半年分の受信料を返せ、今すぐ返せ!」と、力強く文句を言う、というのもあり得る選択肢だ。が、当地の放送関係者は「映らない」というクレームがどれほど寄せられるか、を危惧しているという。

そんな会話をした数日後、/.
地デジチューナーを低所得者に無料配布、政府と与党が検討
という記事が載った。NIKKEI NETの記事によれば、
政府・与党はテレビの地上波がデジタル放送に全面移行するのをにらみ、低所得の高齢者世帯などへの受信機の無料配布を検討する。2011年7月に現行のアナログ放送が打ち切られると地デジに未対応のテレビは映らなくなるため、買い替えが困難な世帯に対する支援策が必要だと判断した。
とのこと。

私個人は、関係団体が英知を結集して作ったガチガチのコピーガードで、自分で見るための複製は勿論、見たくないコマーシャルのカットすらできないテレビ番組に食指は動かないし、家電業界を潤したいとも思わない。だからこのシステムの普及が進まなくても、「当然だ」としか思っていない。だが、テレビが何よりの楽しみ、といった方々もいるだろうことを考えれば、所得制限があるとはいえ無償でチューナーを配布するというのは、悪い策ではない。

ただ、目前に統一地方選が迫り、参院選も射程に入る今日、こういうことを言い出す輩を、私は好きにはなれない。

「刺客」とはなんだったのか

流れが速いasahi.comの記事だから、リンクのほかに以下に引用してみる。

「刺客に批判の資格なし」森元首相が苦言
2006年12月01日19時00分

 「次の選挙まで保証しろと言うのは小泉チルドレンの甘えだ。『刺客』にそんなことを言う資格はない」。森・元首相は1日のTBSの番組収録で、郵政民営化反対組の復党に反対している同党の新人議員らをバッサリ切り捨てた。

 森氏は、小泉前首相が新人議員に語った「政治家は使い捨てにされることを覚悟せよ」との言葉を「極めて至言だ」と評価。その上で、「刺客というのは相手をやっつけて自分が死ぬぐらいだが、自分まで助けてもらっている」と評した。

 一方、復党問題で批判を浴びる安倍首相の政権運営については、「もう一度党員に、しっかり協力してほしいと呼びかけることだ。『発言がないな』と言われるのはそういう点。若いから遠慮があるんだろう」と語った。

asahi.com:「刺客に批判の資格なし」森元首相が苦言 - 政治


郵政解散後の総選挙の際、ある種の候補者を評して用いられた「刺客」という表現を非難するエントリを書いた記憶があるが、もしかして「刺客」は、本当に刺客としての働きだけを期待されていたのだろうか。とすると、私の批判は的外れということになる。だが、もしも「この選挙区のこの候補を潰せ」という密命を達成するためだけに選挙を戦ったとしたら、それは有権者を愚弄する以外のなにものでもない。

引用部の第2段落に見える「政治家は使い捨てにされることを覚悟せよ」との言葉は、「候補者は政党に使い捨てられる」ではなく「政治家は国民に使い捨てられる」という文脈から出ているというし、結局はいつもの「迷言」として誰の記憶にも残らないのだろう。ただ、こんな発言を見るにつけ、「No投票制」導入が急務だ、と考えるのは私だけだろうか。

履修単位「偽装」問題

大学の禄を食むものとして、何を考えなければならないだろうか。
 
今回の「事件」は、富山県の一公立高校で必修科目の履修漏れが「発覚」したことに端を発し、さながら燎原の火のごとく全国津々浦々に広がった。週5日制の完全実施と「ゆとりの教育」が、大学入試という現実との間に齟齬を産み出し、試験科目以外は勉強したくないという大方の受験生のニーズと、教員の「親心」が、今日の事態を招いた、と理解しても、そう大きな間違いではあるまい。

少なくとも、図利目的の耐震強度偽装問題と同列に論ずる論調も見られないし、世間にはびこる無数の「虚偽」が発覚した時のように、関係者への厳罰を求める意見も聞こえて来ない。万のスケールに及ぶ要補習対象生徒は「被害者」であり、彼等に過剰な負担を強いることのないよう配慮が為されそうな状況も現われつつある。

確かに対象となってしまった高校生は被害者であろう。彼等が自発的、積極的に世界史や家庭一般、芸術科目を忌避したということもなさそうだし、そうしたいと思っても現下の管理教育体制ではできようはずもない。受験を目前に控えた高校3年生が、数十時間の補習を受けさせられることを「被害」と認識するのも、止むないところである。

が、「被害の本質」は補習を受けさせられ、貴重な受験勉強のための時間を削られることではない。身につけるべき(敢えて「べき」といおう)教養を得る機会を喪失したことこそ、「被害」なのだ。
第4章 高等学校
第41条〔目的〕
高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第42条〔教育の目標〕
高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。
三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。

学校教育法はこのように、高校教育の目的を説く。今の社会の現実と乖離していることは否めないが、少なくとも受験予備校化を是としていないことは明らかだし、世論も予備校化を求めるほど短絡はしていないだろう。『一般的な教養を高め』ることなしに上級学校に進み、あるいは社会に出たら、彼等のその後の人生にどれほどマイナスになるだろうか。多くの場合そのマイナスを意識するのは、ずっと後になってからだ。意識した時に、マイナスを補填する余力が残っているだろうか。

自分にとって「好ましい」と思う性質、形状等を一切『かわいい』や『やばい』(これは論外)で表し、不愉快であることを『むかつく』としか表現できない若者たち。多彩な感情を表現する語彙を持たないことが、感情の起伏を表現できないという現実に繋がり、揚げ句に「切れやすい」と評される状態に陥っているとは考えられないだろうか。

「知らない」という現実に直面させ、「知る」ことのもたらす豊穣な世界の入口を見せるのが教養教育だと思う。それなしに、単に受験という一つの関門を突破するための知識だけを得て一八歳の春を迎える高校生は、不憫である。
 
[このエントリは書きかけです]

「靖国」

少しだけ気力が回復してきた気がするので、後ればせながらこの話題を。

朝日新聞によると、広田弘毅元首相の遺族が、「靖国合祀に同意していない」と語ったという。東京裁判で死刑判決を受けたたった一人の文官で、他の被告人と違い、弁明を拒否して死を迎えた広田元首相の遺族であれば、当然といえば当然である。

そもそもA級戦犯は「何の罪」で裁かれたのか。どうして彼らがそこに立たされたのか、様々な問題が残されている。広田家の対応は、木村兵太郎陸軍大将の遺族とは正反対だが、太平洋戦争開戦時に(参謀本部ではなく)陸軍省首脳であった木村大将や武藤彰陸軍中将の遺族の無念も理解できる。

さて、軍人たちとは全く違う次元で戦争の時代を生きた政治家、広田については、

が、その人間像を余すところなく描ききっている。昨今の「靖国問題」に関心をお持ちの方は、終戦記念日前に是非ご一読を。また、木村、武藤に関する私の上記意見にご関心の向きは、

をどうぞ。

『ウィーンの冬』


ウィーンの冬

ウィーンの冬 春江一也
集英社インターナショナル

静かな美しいプラハの市街は一夜にして,硝煙と戦車の走る轟音と学生のシュプレヒコールに包まれてしまった。いつも微笑みを忘れなかったドゥプチェックは何処へ行ったのか。チェッコ・スロヴァキアは自らの統制力を失った。変わらないのは,ヴルタヴァの静かな流れのみである。

ワルシャワ条約機構軍に蹂躙されたプラハから、日本の外務省にあてて発せられた公電は、事態の深刻さとは裏腹に、あまりにも詩的であった。

この公電を発した書記官が、後に春江一也というペンネームで『プラハの春』を、続いてベルリンの壁崩壊を軸に『ベルリンの秋』を発表したことは記憶に新しい。史実と、外交官という特殊な立場での知見を下敷きにした両書は、未だ歴史として定着する以前の出来事を見事に活写し、かなり不得手な東欧史への興味を掻き立ててくれた。
続きを読む>>

ふたたび信時潔

新保祐司氏の『信時潔』*1を読んだ。正確には学祭騒動の直前に読み終えていたのだが、一連のバタバタで、記事にするのが遅れてしまった。入手したのは更に前、夏休みの直前に届いていたはずで、読みながらこの夏の神経戦を思い出したりもした。

さてこの本は、都留文科大学教授、文芸評論家である新保氏ならではの視点からみた「信時論」であり、単純な時系列的な伝記とは違う。まず同時代に現れた文学、美術作品と作者の言葉を通じ、信時とその作品を浮かび上がらせている。信時作品で最も知名度の高い「海ゆかば」について、思いがけないような人物が、単なる讃辞には止まらない言葉を述べているのを読むと、不幸にして、戦争という国家の死命を制する重大事に多用されてしまったこの曲の運命を感じずにはいられない。

信時の実父、吉岡弘毅は攘夷思想を持った武士で、維新後、弾正台に職を奉じ、そこでキリスト教に触れて牧師に転じたという。信時の音楽体験は、幼少期、父の教会で奏でられる賛美歌から始まったと思われる。信時自身も、東京音楽学校を一旦退学し、救世軍に加わるなど、キリスト教思想の影響を色濃く受けている。バッハを敬愛し、当事流行の最新の音楽書法には批判的であったという話は、彼の作品を聴けば容易に納得できよう。

新保氏は、信時の作品として「海ゆかば」とともに、オラトリオ「海道東征」を繰り返し取り上げておられる。不勉強な私はこの作品を知らなかったのだが、読了後直ちに、現在購入できる唯一のCDを手に入れ、繰り返し聴いている。バッハに通じる、決して奇を衒うことのない音楽の進行に合わせて語られるのは、北原白秋の詩。そしてそのモチーフは、言うまでもなく神武東征伝説である。「海ゆかば」と同様に、日本の古典に取材し、その言葉の美しさを損なわない音楽が、そこには存在する。決して西洋一辺倒ではなく、日本の精神史にも深い造詣を感じさせる音楽なのである。

「海道東征」については別項に譲るとして、本書に戻ろう。新保氏が、信時の人物像を伝えるエピソードとして取り上げたいくつかの逸話の中で、ふたつ、強く心に残ったものがある。ひとつは山田耕筰との対比だ。同時代を生き、同じ時代の要請で曲を書いた二人だが、山田は戦後、機敏に立ち回り、自己の行動から「戦争の陰」を払拭した。しかし信時は、自身を潤色する言葉を弄さず、戦前、戦中と変わらぬ作風を保った。信時が戦後、楽壇において山田に遅れる印象をもたれる由縁であろうか。このブログの読者諸彦、可能ならば、「からたちの花」と「海ゆかば」のメロディーを思い浮かべてみてほしい。私はこれが、山田と信時の相違そのものだと思う。そして私は、信時の音楽に現れた彼の精神性に強い共感を禁じ得ない。

そしてもう一つのエピソード。これは、本書に紹介された信時の言葉を引用させてもらおう。

 音楽は野の花の如く、衣装をまとわずに、自然に、素直に、偽りのないことが中心となり、しかも健康さを保たなければならない。たとえその外形がいかに単純素朴であっても、音楽に心が開いているものであれば、誰の心にもいやみなく触れることができるものである。日本の作曲家で刺激的な和声やオーケストレーション等の外形の新しさを真似たものは、西洋作曲家のような必然性がない故に、それの上を行くことがはきない。自分は外形の新しさを、それがどうしても必要とするとき以外は用いない。外形はそれがいかに古い手法であっても。*2

信時の音楽を語るには、この信時自身の言葉が最も雄弁であり、必要にして十分である。音楽について述べた言葉ではあるが、これは日々変化する社会の中で、半ば流れるように生きている現代人にも、重い教戒として響く。勿論、私自身にも。

  • *1 : 構想社刊 ISBN4-87574-069-7
  • *2 : 同書pp187-8

『海ゆかばのすべて』

先日の合宿で靖国神社に参拝した折、遊就館で『海ゆかばのすべて』というCDを買った。何も楽器店以外でディスクを求める必要もないのだが、品揃えの良い大きなショップに行く機会が減ったため、ある意味「特殊」なディスクは、こういうところの方が入手し安い。

以前にもここで『君が代のすべて』を購入したことがあり、今年6月にリリースされたばかりの『海ゆかば』を見つけたときは、ほんの一瞬の躊躇もなく購入した。

購入の理由は、戦中に多用され、その後はなかば封印された格好になった信時潔の「海ゆかば」よりむしろ、東儀季芳作曲の海軍儀制曲「海ゆかば」(こちらは「軍艦マーチ」のトリオとしてのみ、今日耳にする)に関する知識を増やしたいと思ったからだが、開封してみると、信時作が大半で、東儀作については、かなり貴重な音源が使われ、谷村政次郎氏の丁寧な解説が見られる程度で、ややがっかりした。だか、再生してみると、この感想が間違いであることにすぐに気づかされた。信時の「海ゆかば」は、あまりにもすばらしいのだ。

自衛官だった父が買い求めた軍歌のLPで、信時の「海ゆかば」を聴く機会はいくらでもあった。自分で購入したディスクにも、新旧の録音が含まれており、よく知っている曲である。その歌詞も、聖武天皇の宣命(『続日本紀宣命』所収)に見えることくらいは知っていた。

ところが改めてディスクに収められた新旧いくつもの「海ゆかば」を聴いてみると、鳥肌が立つほど美しいと感じたのだ。日常、和声法の教科書を見ても理解できないような不思議な和音が溢れる巷に暮らすうちに、忘れかけていた「基本」の美しさに出会った、そんな気分だった。

続きを読む>>

寳貨偽造

「耳を揃えて」という言葉がある。決して札束をきれいに揃えるという意味ではない。江戸時代、小判の縁を削って両替屋で換金する輩がいた。金だから少量ずつでもやがては大きな額になる。削られた小判の方は、というと、市中では1枚1両で流通することが可能だが、両替屋に行くと、秤量貨幣として目方が計られ、重さで価値が変わる。だから、「縁の削られていない規定通りの目方の」というのが「耳を・・・」の意味になる。かつて10円玉の縁にギザギザがあったのも、削り取りを防止するためだ。

偽造500円玉が大量に流通しているらしい。報道で見る限り、あまり精巧とはいえないが、それなりの型を作り、目方を計った地金を打ち出して作っているようだ。日本国内では到底割りに合わない仕事だから、おそらくはアジアのどこかの国で作られているのだろう。世界でもっとも高額な硬貨だから、狙われても不思議はない。

金融機関では当面、特にATMで硬貨の使用を制限することになるだろう。窓口でも相当に警戒して処理が行われるのは必至だ。通貨は国の信用そのものだから、偽金を根絶するために厳しく事に当たるのは当たり前なのだが、ちょっと困ったこともある。かなりの数が溜まっている私の500円玉貯金、どうしよう。

去年は400枚を一気に窓口に持ち込み、一眼デジカメの支払いにあてた。だが今、100枚単位で金融機関に持って行くのは、かなり危ない。新しい三脚を買いたかったのだが・・・。
calendar
<< 卯月 2025 >>
SunMonTueWedThuFriSat
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
selected entries
categories
archives
recent comments
recent trackbacks
profile
others