罰当たりめ!
典型的な模倣犯。耳目を集めたいが人前に顔を出すほどの度胸もない卑小なクズが、長い長い時を経て息づく人々の信仰、心など一顧だにせず、薄汚い自己顕示欲のために形あるものを壊した。ものに込められた人々の心を踏みにじった。
太宰権帥として客死した菅原道真公は雷となって清涼殿を焼き、皇位簒奪をでっち上げた時平の子分共を焼き殺した。時平の落命も、菅公の祟りといわれた。その菅公の使いであるなで牛を叩き壊したのだ。天罰は自ずから重いものと知れ。
ただ、対策の中身については、戻し減税を中心とすることでは一致しているものの、「減税は実際には全額が消費に回らない」(シューマー議員)として、民主党側は「確実に支出される」(同議員)政府公共投資の盛り込みを求めている。これに対し、共和党側からは「1990年代の日本のような効果のない対策になる恐れ」(イングリッシュ下院議員)と難色を示す声も出ている。随分痛いことを仰しゃいますな、共和党どの。
地デジチューナーを低所得者に無料配布、政府と与党が検討という記事が載った。NIKKEI NETの記事によれば、
政府・与党はテレビの地上波がデジタル放送に全面移行するのをにらみ、低所得の高齢者世帯などへの受信機の無料配布を検討する。2011年7月に現行のアナログ放送が打ち切られると地デジに未対応のテレビは映らなくなるため、買い替えが困難な世帯に対する支援策が必要だと判断した。とのこと。
「刺客に批判の資格なし」森元首相が苦言
2006年12月01日19時00分
「次の選挙まで保証しろと言うのは小泉チルドレンの甘えだ。『刺客』にそんなことを言う資格はない」。森・元首相は1日のTBSの番組収録で、郵政民営化反対組の復党に反対している同党の新人議員らをバッサリ切り捨てた。
森氏は、小泉前首相が新人議員に語った「政治家は使い捨てにされることを覚悟せよ」との言葉を「極めて至言だ」と評価。その上で、「刺客というのは相手をやっつけて自分が死ぬぐらいだが、自分まで助けてもらっている」と評した。
一方、復党問題で批判を浴びる安倍首相の政権運営については、「もう一度党員に、しっかり協力してほしいと呼びかけることだ。『発言がないな』と言われるのはそういう点。若いから遠慮があるんだろう」と語った。
asahi.com:「刺客に批判の資格なし」森元首相が苦言 - 政治
第4章 高等学校
第41条〔目的〕
高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第42条〔教育の目標〕
高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。
三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。
静かな美しいプラハの市街は一夜にして,硝煙と戦車の走る轟音と学生のシュプレヒコールに包まれてしまった。いつも微笑みを忘れなかったドゥプチェックは何処へ行ったのか。チェッコ・スロヴァキアは自らの統制力を失った。変わらないのは,ヴルタヴァの静かな流れのみである。
新保祐司氏の『信時潔』*1を読んだ。正確には学祭騒動の直前に読み終えていたのだが、一連のバタバタで、記事にするのが遅れてしまった。入手したのは更に前、夏休みの直前に届いていたはずで、読みながらこの夏の神経戦を思い出したりもした。
さてこの本は、都留文科大学教授、文芸評論家である新保氏ならではの視点からみた「信時論」であり、単純な時系列的な伝記とは違う。まず同時代に現れた文学、美術作品と作者の言葉を通じ、信時とその作品を浮かび上がらせている。信時作品で最も知名度の高い「海ゆかば」について、思いがけないような人物が、単なる讃辞には止まらない言葉を述べているのを読むと、不幸にして、戦争という国家の死命を制する重大事に多用されてしまったこの曲の運命を感じずにはいられない。
信時の実父、吉岡弘毅は攘夷思想を持った武士で、維新後、弾正台に職を奉じ、そこでキリスト教に触れて牧師に転じたという。信時の音楽体験は、幼少期、父の教会で奏でられる賛美歌から始まったと思われる。信時自身も、東京音楽学校を一旦退学し、救世軍に加わるなど、キリスト教思想の影響を色濃く受けている。バッハを敬愛し、当事流行の最新の音楽書法には批判的であったという話は、彼の作品を聴けば容易に納得できよう。
新保氏は、信時の作品として「海ゆかば」とともに、オラトリオ「海道東征」を繰り返し取り上げておられる。不勉強な私はこの作品を知らなかったのだが、読了後直ちに、現在購入できる唯一のCDを手に入れ、繰り返し聴いている。バッハに通じる、決して奇を衒うことのない音楽の進行に合わせて語られるのは、北原白秋の詩。そしてそのモチーフは、言うまでもなく神武東征伝説である。「海ゆかば」と同様に、日本の古典に取材し、その言葉の美しさを損なわない音楽が、そこには存在する。決して西洋一辺倒ではなく、日本の精神史にも深い造詣を感じさせる音楽なのである。
「海道東征」については別項に譲るとして、本書に戻ろう。新保氏が、信時の人物像を伝えるエピソードとして取り上げたいくつかの逸話の中で、ふたつ、強く心に残ったものがある。ひとつは山田耕筰との対比だ。同時代を生き、同じ時代の要請で曲を書いた二人だが、山田は戦後、機敏に立ち回り、自己の行動から「戦争の陰」を払拭した。しかし信時は、自身を潤色する言葉を弄さず、戦前、戦中と変わらぬ作風を保った。信時が戦後、楽壇において山田に遅れる印象をもたれる由縁であろうか。このブログの読者諸彦、可能ならば、「からたちの花」と「海ゆかば」のメロディーを思い浮かべてみてほしい。私はこれが、山田と信時の相違そのものだと思う。そして私は、信時の音楽に現れた彼の精神性に強い共感を禁じ得ない。
そしてもう一つのエピソード。これは、本書に紹介された信時の言葉を引用させてもらおう。
音楽は野の花の如く、衣装をまとわずに、自然に、素直に、偽りのないことが中心となり、しかも健康さを保たなければならない。たとえその外形がいかに単純素朴であっても、音楽に心が開いているものであれば、誰の心にもいやみなく触れることができるものである。日本の作曲家で刺激的な和声やオーケストレーション等の外形の新しさを真似たものは、西洋作曲家のような必然性がない故に、それの上を行くことがはきない。自分は外形の新しさを、それがどうしても必要とするとき以外は用いない。外形はそれがいかに古い手法であっても。*2
信時の音楽を語るには、この信時自身の言葉が最も雄弁であり、必要にして十分である。音楽について述べた言葉ではあるが、これは日々変化する社会の中で、半ば流れるように生きている現代人にも、重い教戒として響く。勿論、私自身にも。
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