2006.10.28 土曜日 11:21
履修単位「偽装」問題
大学の禄を食むものとして、何を考えなければならないだろうか。
今回の「事件」は、富山県の一公立高校で必修科目の履修漏れが「発覚」したことに端を発し、さながら燎原の火のごとく全国津々浦々に広がった。週5日制の完全実施と「ゆとりの教育」が、大学入試という現実との間に齟齬を産み出し、試験科目以外は勉強したくないという大方の受験生のニーズと、教員の「親心」が、今日の事態を招いた、と理解しても、そう大きな間違いではあるまい。
少なくとも、図利目的の耐震強度偽装問題と同列に論ずる論調も見られないし、世間にはびこる無数の「虚偽」が発覚した時のように、関係者への厳罰を求める意見も聞こえて来ない。万のスケールに及ぶ要補習対象生徒は「被害者」であり、彼等に過剰な負担を強いることのないよう配慮が為されそうな状況も現われつつある。
確かに対象となってしまった高校生は被害者であろう。彼等が自発的、積極的に世界史や家庭一般、芸術科目を忌避したということもなさそうだし、そうしたいと思っても現下の管理教育体制ではできようはずもない。受験を目前に控えた高校3年生が、数十時間の補習を受けさせられることを「被害」と認識するのも、止むないところである。
が、「被害の本質」は補習を受けさせられ、貴重な受験勉強のための時間を削られることではない。身につけるべき(敢えて「べき」といおう)教養を得る機会を喪失したことこそ、「被害」なのだ。
学校教育法はこのように、高校教育の目的を説く。今の社会の現実と乖離していることは否めないが、少なくとも受験予備校化を是としていないことは明らかだし、世論も予備校化を求めるほど短絡はしていないだろう。『一般的な教養を高め』ることなしに上級学校に進み、あるいは社会に出たら、彼等のその後の人生にどれほどマイナスになるだろうか。多くの場合そのマイナスを意識するのは、ずっと後になってからだ。意識した時に、マイナスを補填する余力が残っているだろうか。
自分にとって「好ましい」と思う性質、形状等を一切『かわいい』や『やばい』(これは論外)で表し、不愉快であることを『むかつく』としか表現できない若者たち。多彩な感情を表現する語彙を持たないことが、感情の起伏を表現できないという現実に繋がり、揚げ句に「切れやすい」と評される状態に陥っているとは考えられないだろうか。
「知らない」という現実に直面させ、「知る」ことのもたらす豊穣な世界の入口を見せるのが教養教育だと思う。それなしに、単に受験という一つの関門を突破するための知識だけを得て一八歳の春を迎える高校生は、不憫である。
[このエントリは書きかけです]
今回の「事件」は、富山県の一公立高校で必修科目の履修漏れが「発覚」したことに端を発し、さながら燎原の火のごとく全国津々浦々に広がった。週5日制の完全実施と「ゆとりの教育」が、大学入試という現実との間に齟齬を産み出し、試験科目以外は勉強したくないという大方の受験生のニーズと、教員の「親心」が、今日の事態を招いた、と理解しても、そう大きな間違いではあるまい。
少なくとも、図利目的の耐震強度偽装問題と同列に論ずる論調も見られないし、世間にはびこる無数の「虚偽」が発覚した時のように、関係者への厳罰を求める意見も聞こえて来ない。万のスケールに及ぶ要補習対象生徒は「被害者」であり、彼等に過剰な負担を強いることのないよう配慮が為されそうな状況も現われつつある。
確かに対象となってしまった高校生は被害者であろう。彼等が自発的、積極的に世界史や家庭一般、芸術科目を忌避したということもなさそうだし、そうしたいと思っても現下の管理教育体制ではできようはずもない。受験を目前に控えた高校3年生が、数十時間の補習を受けさせられることを「被害」と認識するのも、止むないところである。
が、「被害の本質」は補習を受けさせられ、貴重な受験勉強のための時間を削られることではない。身につけるべき(敢えて「べき」といおう)教養を得る機会を喪失したことこそ、「被害」なのだ。
第4章 高等学校
第41条〔目的〕
高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第42条〔教育の目標〕
高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。
三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。
学校教育法はこのように、高校教育の目的を説く。今の社会の現実と乖離していることは否めないが、少なくとも受験予備校化を是としていないことは明らかだし、世論も予備校化を求めるほど短絡はしていないだろう。『一般的な教養を高め』ることなしに上級学校に進み、あるいは社会に出たら、彼等のその後の人生にどれほどマイナスになるだろうか。多くの場合そのマイナスを意識するのは、ずっと後になってからだ。意識した時に、マイナスを補填する余力が残っているだろうか。
自分にとって「好ましい」と思う性質、形状等を一切『かわいい』や『やばい』(これは論外)で表し、不愉快であることを『むかつく』としか表現できない若者たち。多彩な感情を表現する語彙を持たないことが、感情の起伏を表現できないという現実に繋がり、揚げ句に「切れやすい」と評される状態に陥っているとは考えられないだろうか。
「知らない」という現実に直面させ、「知る」ことのもたらす豊穣な世界の入口を見せるのが教養教育だと思う。それなしに、単に受験という一つの関門を突破するための知識だけを得て一八歳の春を迎える高校生は、不憫である。
[このエントリは書きかけです]
comments
「良い就職先」が欲しくて勉強することを否定するつもりはありません。というか、人間の向上心は実利を伴って始めて具体化するものでしょう。教養を身につけたい、といった理念だけで努力できる方を尊敬しますが、現実は厳しいと思いますよ。
>「自分で書いちゃった方が卒業が早い」というエセ情報
申し訳ありませんが、内情を知らない私としては何も申し上げられません。そもそも、自分で書くのが何故悪いのか、という時点でおっしゃる意味が理解できません。