2008.02.07 木曜日 23:03
大寒小寒の会津に戻りました。明日朝から断続的に、母親を連れて100kほど離れた病院に通います。田舎では重い病気になると確実に助かりません。まともな医療を受けようと思ったら、最低でも政令指定都市に住む必要がありそうです。
株の暴落くらい痛くも痒くもない閣僚がいる内閣に経済政策を期待するだけ野暮、公的福祉に頼るつもりのない官僚が作った福祉プログラムに期待するのは浅葱裏だけ、ということでしょうか。
それにしても、このままでは当家は滅亡してしまいます。どなたか、保護の手を・・・。せめて朱鷺の万分の一でいいですから。
2月最終週まで雪と氷の会津にいる予定です。
2008.01.15 火曜日 19:00
大学という社会が一番忙しい季節になった。各種試験と準備、付随する会議など、これから数週間は息つく暇もない。とまでは行かないが、とにかく忙しい。同僚諸氏に比して随分楽をさせてもらっている私ですら忙しいと感じるのだから、学部学科の中核として頑張っていらっしゃる諸賢のご苦労や、いかばかりかと拝察。
普段は、「今日できることは明日でもできる」とばかりに用務の平準化(?)に励む私だが、現任校で初めて迎えるトップシーズンということでいささか緊張気味。久し振りに前倒しで用務を処理し始めた。直近の成績評価に向けて、本学の作法に従い、作業を最大限効率化するための準備作業。どうしても「手動」でなければできない特定の作業を迅速に処理するため、周辺の細々したことを手元のPCで総て処理してしまい、必要なデータを待って一気に出力する算段だが、はたして巧くいくかどうか。
などと威勢のいいことを書いても、実はもうへとへと。このところ心身ともにしんどいことが続き、やせ我慢&高楊枝がいつまでもつか、ちょっと不安・・・。個人営業の文系はこういうときに辛い。
2008.01.06 日曜日 21:52
会津は冷たいみぞれが降っていた。ローカル線と新幹線、中央線の三線を乗り継いで6時間弱、陽は落ちてもまだ昼間の温もりの残る甲府に着いた。明日から新しい年の始動だ。
気丈だった母は、めっきり弱くなっていた。ニ週間一緒に過ごし、いざ出かけようというときの表情は、実に寂しそうで言葉がない。「猫5匹と一緒に移り住むか」と問うたが、息子に迷惑をかけてはいけないと思いこんでいるのだろう、答えは「否」であった。
この年末年始、当家にはほんの僅かの変化があった。会津に戻って最初の夜、食事の時間、母は私に、半年間空いたままの場所に座れといった。子供のころ、ふざけて座ると必ず母に怒られた、そこは父の「座」であった。格式も家産もないサラリーマン世帯でも、父の存在は家の中心であり、とても重いものなのだと教えこまれた、その「座」に座れと、母は言う。そこに然るべき誰かが座ってないと、寂しくて仕方がないのだろう。
私がその「座」に着くとほどなく、左右に猫が来て座った。かつて父がそうしたように、食卓から肉や魚をつまみ、大人しく待っている猫に与え、頭を撫でる。こいつらも、この「座」に誰かが座るのを待っていたのか。
責任などという当世風の薄っぺらい言葉では言い尽くせない何かを背負う、その覚悟が必要な場所が、私の「座」になった。
2008.01.01 火曜日 21:42
雪に降り込められて年を越した。祝い事のない正月だから、訪う人もなく、寄ってくる猫を撫でながら本を読むという、静かな休日を過ごす。もっとも長毛の四女は雪でも構わず外に出て、水たまりでも踏破したのかずぶぬれ、雪まみれで帰ってくる。自分では毛繕い出来ないレベルの濡れ方なので、家人のいる居間に鳴きながら入ってきて、後は大騒ぎ。日中だからまだ対応もするが、真夜中に雪だるま状態で寝室に入ってこられると、正直パニックになる。
年の内に、母に頼まれて居間のドアに小さな内鍵を付けた。道具は、長年父が買い集めたものが、それこそ壁一面規模で揃っているから、部品さえ買ってくれば、取り付けなど朝飯前。ものの10分で、母の規模どおりの動作を確認。
今さらたが、私は「作る」こと、何かを作っているという状態、修理・改良のために智恵と技を揮うことが、とても好きだ。仕事でも、道楽でも、「好き」で「楽しい」から、何年も、何十年も、倦まず続けていられる。ならば、年の始めに、今年の目標として、改めて「作る」を掲げることにしよう。
何も機械類ばかりではない。今年は、前任校時代と比肩しうるゼミを作る。人に自慢したくなるような良い講義ノートを作る。これは作り直すといったほうが正確かな。活字になる仕事、執筆活動も「作る」に入るだろう。さしあたり、近々に科研費がらみの報告書を一点。その後は、秋を目処に明治関係を少々。
料理、写真、音楽は、折りに触れ、ひらめいたときに良い作品を作る。特に音楽はMIDI板「海道東征」の実現に向けて、工夫をしてみよう。単体のMIDI楽器がほとんど販売されなくなっている現状では、ちょっと急いだ方がいいかもしれない。昨年から凝りに凝っている音響機器は、これはしっかりと計画をたて予算措置を十分に。
作る、作り出す、生み出す。想像力を振り絞り新しい何かを形にするのは、私達の稼業では当然のこと。それを意識的に、前向きに、かつ楽しみながら継続することができれば、研究者人生の後半を、よりアグレッシブに、力強く切り拓いていけるのではなかろうか。
2007.12.31 月曜日 21:21
去年とは打って変わり、大雪の年越しになった。慣れているとはいえ、朝起きたら50センチ以上の積雪、というパワフルな天候には、ほとほと泣かされる。そして足元をすくう大雪のせいで、更に静かな大晦日になった。母と猫たちの様子を視界のどこかに認めながら、簡単な掃除だけで年内の予定を終えた。
思えばいろいろなことがあった。糾う縄の如く禍福が交々現れる、変転の激しい一年だった。非常に重要な変化の年であったことは確かだが、一刻も早く終わってほしい忌々しい年でもあった。
目前に迫った新しい年。春までには、母の健康面の不安を一切、払拭してしまいたい。そして、新しい環境で、再スタートのつもりで日々の勤めに励んでいこうと思う。
今年は本当にお世話になりました。新年の挨拶は失礼させていただきます。どうぞ良い年をお迎え下さい。>各位
2007.12.26 水曜日 21:59
昨年までは、用もないのに出校を義務づけられ、一日でも早く帰省するめ、奥歯を噛み締めながら下げたくもない頭を下げ、ストレス満タンで会津に戻っていた。今年はそんな苦労など忘れ、早々と戻ったものの、ローカルな行事に惣領として臨まなければならないことが、新たなストレスになる。
でも今日はストレスフリーのイベント。数年ぶり、恐らくは5年ぶりくらいに、蕎麦打ちの練習に出かけた。私の師匠は父方の従兄。市内だけでも、跡取りとして農地を守る従兄が6人いて、そのうち何人かが蕎麦を打つ。そのなかでも一番美味い蕎麦を打つと評判の高い従兄に、久し振りに教わりに行った。
細かい過程は略すとして、結果は、従兄の指導よろしきを得て上々の打ち上がり。都合一升五合程の蕎麦を打ち、とても食べきれないので、持ち帰って近所に配った。
自家製の蕎麦の実を自家製粉するから粉の鮮度が高い。それだけで美味いのが当然だが、彼の住む集落では、地下水脈が岩塩層に接しているのか、井戸水にわずかに塩気がある。彼によると、この水で打たないと、味が出ないとか。奥が深い。
父たちの世代の「兄弟会」が途絶えて久しいが、先日「従兄弟会」の準備会が開かれた。来年、農閑期で私が帰省できるとき、正式に第一回を開くとのこと。当家一族の男は、手先が器用で、マメであることが徳目。私も一族から追放されたりしないように精進しなければ、と決意を新たにした。
2007.12.24 月曜日 23:53
晴天の甲府から東京に出て土産を見繕い、新幹線で北に向かいました。よく考えたら休日でクリスマスイブ。東京駅周辺は大層な人手でした。人口密度の低いところばかりで生息しているため、人ごみは好きじゃありませんし、荷物を持っているときは特に空いている方向に進みたくなります。
郡山あたりで外を見るとどんよりとした曇りで、会津の方は更に黒い雲が。雪が舞っているようです。夕日の残照が山の向こうに沈みこんでしまう少し前、実家に帰り着きました。今度は母の健康状態に問題が生じ、寂しく、重苦しい年末の帰省となりました。
居間で冷えた身体を温めるよりも先に、猫たちが集まってきました。夏場と違い、寒い季節は遊びたい盛りの四女や長男も家にいることが多いようです。次女は何やら言いながら(世間一般では「鳴きながら」と書くらしい)足元に纏わりついて離れません。
これからしばらくは、母と5匹の猫たちと、静かに過ごします。
2007.12.20 木曜日 20:12
思えば、「アッ」という間もないくらい、慌ただしい1年だった。
一年前の今頃、北陸を去ると決めた。そして、戦争のような3ヶ月を過ごし、万感の思いを胸に、友人、知人、弟子たちに別れを告げた。
甲府でも慌ただしさは変わらず、それでも住まいと研究室と、それなりに使える程度にまで整備し、さあ明日から講義だという日に、父が倒れ、最後の入院をした。「病院への送り迎えに、いまより大きい車が欲しい」という母の希望で買った新しいセダン、とうとう父は一度も乗ることがなかった。70年を一期に逝ってしまった。
金沢、甲府をはじめ、各地から温かい善意が寄せられ、それに縋って辛い季節を乗り越えた。だか悪いことはそうそう簡単には終ってくれない。夏の盛りから、母の具合が悪くなった。気持ちの張りをなくした老体に、5年にわたる看病疲れがのしかかった。
大きな心配事を抱えながら、秋からはいくつか、活字になる仕事をした。仕事が出来る、あるいは仕事をさせる環境をくれた現任校には、感謝してもしたりない。私まで気持ちの張りを失ったら、原家は滅亡してしまう。
これまでと少しも変わらない講義をしていたら、「ゼミを取りたい」という奇特な学生が現われた。物を書いていたら、新しい発見で少しだけ目が開いた。音楽、演奏と再生の両方に時間を振り分け、見るべき進歩があった。
でもやっぱり時間の使い方が下手。講義が終り、後始末と書類の整理をしていたら、外はもう暗い。義務はないけど、明日も出校して、せめて少しくらい掃除をしておこう。
2007.11.09 金曜日 10:15
ようやく長い長い9月がどこかに行きました。「ブツ」にはかなりの手直しが必要ですが、とりあえずは太陽暦の生活にもどります。
で、普段と、あるいは例年とどれほども違わない「芸術(!?)の秋」。去年までと違うのは、「音の出る暖房機プロジェクト」が発動していることですが、機械に走るのは生演奏ができないからでして、断言しますが、生があるならそれに越したことはありません(グールドファンのみなさんごめんなさい。チェリビダッケファンのみなさん、お仲間に入れて下さい)。ということで、今日これから、楽譜の束とタクトを担ぎ、手兵の招きに応じて古巣金沢に潜入します。ですから、街で見かけても「脱○者!」なんて後ろ指をささないで下さい>旧知の各位
ところでこの一週間、芸術の秋にふさわしいコンサートのお誘いをいくつもいただいています。特に有難かったのが、自衛隊の音楽祭り。来週末、武道館で何回か公演があります。まずは「先生お一人くらい大丈夫ですから御一緒に」という感激モノのお申し出をいただきましたが、公演の前後、微妙にずれたところで甲府と東京に用務があり、武道館で楽しんでいる時間がありません。非常に残念であることを繰り返し述べた上で、丁重にご辞退申し上げました。
ところがです。つい昨日、別な方から「音楽祭りのチケットありますからお出で下さい。足代も出させていただきます」と、感激で舞い上がりそうなお誘いが。そんなに親切にしていただくほど、私は善行を積んではいませんし、日程のグチャグチャはどうしようもありません。そこで泣く泣く、ご辞退させていただきました。
音楽祭りや観艦式のような自衛隊のイベントは、実は人気が高く、チケット入手は至難です。『音楽祭りのお誘いを二度いただいて、二度とも辞退した』という今回の経験は、私の自分史に長く刻まれる事でしょう・・・。青い空なんか大ッ嫌いだ(;_:)。
2007.11.04 日曜日 22:09
あいつはとうとう・・・、と思った方、心配御無用です。しっかりと正気で日々のお勤めに励んでいます。明日も研究日だというのに出校し、きっちりと働きます。こんな具合だから、まだ9月中なんです(旧暦だけど)。そうじゃないと、9月末日の〆切が・・・・・。
かれこれひと月こんな有り様で、昨日は朝から旧友が甲斐に来るというのに、夕食時になってようやく合流。何年ぶりかで再会したと思ったら、あまりに時間が短く、楽しかっただけに悔しさもひとしお。次のチャンスには必ず拙宅に泊っていただき、最近のマイブーム「音の出る暖房機」を楽しんでもらうことにしましょう。実は先月の始め、この家の最初の客となった一番弟子のM博士も、折柄盛りのぶどうと「暖房機」で歓迎しました(当人は歓迎されたと思っていないかも・・・)。ま、9月が終ったら、この「暖房機」ネタでエントリを飾りましょう。
ところで・・・・・・・
「俺は、先の先まで考えている」
「この状況でも教条主義を捨てないバカ共に、意見なんかする資格はない。されたくもない」
「責任を負わずにキャスティングボードだけ握れるのは、今しかないってことに気づかない奴は、根本的にセンスがない」
「でもどんなバカでも頭数は必要だ」
「いっそ口のない、ただの頭だけになってくれればいい」
「なら、誰から見てもバカは奴等だって分かるようにして」
「奴等が俺に土下座するように仕向けて」
「赦してやる代わりに口を開けないようにしてやるか」
こんなあたりでしょうかねぇ。