2007.09.30 日曜日 23:55
昨日今日と甲府も随分気温が下がり、暑がりの私にも楽に生きていける季節になりました。
夏前から続くドタバタは、止どまるところを知らず、今は母親の健康状態を意識の端においたまま、日々の用務に追われています。
数ある私の趣味、中でも目下のターゲットは料理と、カメラと、オーディオ。
新しい(しかも真夏向きの)レシピを考えましたが作る時間がありません。新しいカメラを注文しましたが、品薄でいつ届くか分かりません。画期的に音が良くなる機械を作ろうと思ったら、狙った機械のセットが売り切れで買えません。だから仕事をしています。
真夏に起こったドタバタで甲府に戻るのが十日も遅れ、必然的に仕事は滞りました。ここ十日で3件、仕事をやっつけましたが、まだいくつか残っています。だからまだ9月が続くんです。勝手に10月になんかなられたら困ります!
世の中に 絶えて締切の なかりせば
秋の月夜は のどけからまし
今日はやたらと文章が短いです。というのは、ついさっきまで、平均して一文が100字を軽く超えそうな難解な文章を書き続けていたから、反動で短くなっちゃったんです。
2007.09.26 水曜日 22:50
長い長い夏が、ようやく南に引き上げ始めたようです。ここ甲府でも、「暑苦しい」としか表現しようのない暑さが影を潜め、外を歩いても辛いと感じなくなりました。
夏の出稼ぎ終了直後、実家の母が入院、手術を2回というとんでもない事態が起こり、甲府に戻ったのはもう中旬でした。それから「月末締め」という慈悲のかけらもない仕事の数々と取り組み、彼岸で実家に戻ったらまた母が具合を悪くする有り様で、落ち着いて仕事が出来る環境ではありません。それでもミッションはミッション。寝る間も惜しんで進めたところ、全部で五つのうち三つまではなんとかクリアできそうですが、残り二つがいけません。だから復活もまだ「暫定」です。
昨日から後期が始まり、今日は「講義×3+会議×4」でした。一日で、去年一年間で出た会議の数をあっさり超えています。会議も三つめあたりから、何を話しているかよく分からなくなりますね。
秋からは新天地で仕切り直し、勉強と趣味とバランスよく精力的にこなしていこう、と思い定めていたのですが、当分、勉強に近いあたりから横に突き出した「仕事」に悩まされそうです。
2007.08.15 水曜日 22:44
お暑うございます。
東北とはいえ会津も盆地。甲府ほどではないにしろ、もう四日、猛暑日が続いています。エアコンの効いた部屋でごろごろしながら、積んでおいた歴史関係の本を端から読んでいると、灰色の次女が寄りかかって昼寝を始めるというほぼ理想的に静かな環境で、初春以降積もりに積もった疲労を流し去っています。
昨年までの前任校時代とは打って変わり、講義のない期間の無駄以外の何物でもない出校義務はなく、今年はゆっくりと会津にいます。私の何倍も落ち込んでいた母も、少しずつ元気を取り戻しています。
家督(なんてほど大したものはありませんが)になってしまい、対外的(ほとんど因習とも言えそう)な行事に参加し、自分の名前を書いたのし袋を置いては頭を下げる数日間が過ぎました。その間、地元選出の国会議員から、「盆」ということで電話や文書が入ってきます。お参りを名目にした選挙区回りです。テレビで誰かがしきりと喚いていた「常在戦場」という、なんとも時代掛かった台詞を思い出し、総てお断りしました。従前から(選挙以外で)お付き合いのある議員からであっても決して有り難いとは思えず、ましてや支持をした記憶はおろか、いつ当選したのかも分からないような方から、心のこもらない慇懃無礼な文書をいただいても、断じて投票しようという気にはなりません。
ただ、この手のアクセスが与野党双方からある、という現実に、先の参院選の重大な影響を垣間見た気がします。選挙前、消えた年金記録について第三者委員会で訂正が認められたご婦人が、涙を浮かべつつ「選挙のお陰です」と語るという、でき過ぎた場面を見ましたが、「選挙前のばら撒きだけでは全然足りなかった与党」と「政権を取るまでは現実的な実効性なんか無視して美味しそうなものを並べまくる野党」の対立で、民生の安定に繋がる施策が現れるなら、「常在戦場」も悪くはありません。議員が「戦場」即ち「選挙」を意識しているなら、実際に選挙が政治日程に上らないあいだでも、国民が主権者でいることができるのですから。
明日の夜、東京に移動して、夏の御奉公週間に突入です。
2007.07.24 火曜日 00:23
昨日の(もうおとといか)日曜日、録画しておいた『題名のない音楽会21』を観た。サブタイトルは「指揮者になる夢かなえます」。テレビマンユニオンの傑作『オーケストラがやってきた』が終って以来、民放にあって、クラシック音楽という、ややテレビうけしにくいジャンルで孤塁を守り続けた由緒正しい番組だ。
素人がオケの指揮をするという「夢」。弦が中心のオケとは違うものの、14年間一緒に活動してきた手兵の吹奏楽団と分かれたばかりの私には、非常によくわかる。
番組でグランプリを獲得した青年が振ったのが、ドヴォルザークの三部作『自然・人生・愛』から第2曲、「謝肉祭序曲」だった。人生の最も華やかな瞬間を描こうとしたのか、タンバリンとトライアングルが弾けるようなリズムを刻み、途中に甘美なボヘミア民謡を挟んで、輝かしいエンディングへと駆け登る。良くいえば力強くおおらかで、悪くいえば通俗的な作品だが、私はこの曲が大好きだ。でも指揮するのは難しい。あまりにテンポが速いため、リズムを出すだけで精一杯で、表情を付けるというより無駄な動きが目立ってしまう。私もそうだった。
今年の3月15日、手兵たちとの最後のステージのために編曲したのもこの曲だ。練習不足は毎年のことで、技術的に見れば人前で演奏などできないレベルなのだが、今年の演奏は例年とは違っていた。楽員の大半から、痛いほどの視線を感じ、ときに気圧されそうになる。彼らは、私のタクトが伝えるどんな小さな指示も見逃すまいと、これ以上はないというくらい真剣に私の手を見ていた。私も、一秒でも長く彼らと音楽をしていたいと念じながら棒を振った。その思いが音に乗ったのだろう。演奏後、普段クラシックを聴くことなど絶対ない、と断言できそうな一般学生諸君から、気恥ずかしいくらい好意的な評価の声が寄せられた。
甲斐に移って以来、身近にいろいろなことが起り過ぎて、この土地に慣れる暇もなかったが、むせ返るような盆地の暑さを忘れさせてくれるみずみずしい白桃を手にする時、厳しくても豊かな自然と、そこに生きる力強い人々との結びつきを思い、この地にしっかりと立たなくてはならないと感じる。
この一月あまりの辛い時間、私を支えてくれたのは、加賀と、甲斐と、そして会津から寄せられた有形無形の善意だった。どんな形でこの善意に応えていくか、これからの大きなテーマになるが、とりあえずは12月に開かれるという(元)手兵たちの演奏会に客演し、もう一度「謝肉祭」を振ろう。私の人生の中で非常に重要な部分を占める音楽という表現手段で、私は彼らから貰った愛情に応えることを目指そうと思う。「永遠に未完の三部作」に付き合わされる彼らは気の毒かもしれないが。
ご心配いただきましたが、もう大丈夫です。本当にありがとうございました>各位
2007.06.12 火曜日 21:12
昨日、11日の夕方から、なにやら大がかりな狂言に巻き込まれてしまった感があります。その中心付近に自分が置かれ、あれよあれよというまに道具、仕掛けが出来上がっていきます。なのに少しも現実味がなく、正に狂言、しかも誰が書いたのか、出来の悪い、決して再演などしてほしくない一幕ものの三文芝居が進行しているような、そんな気分です。
明日、大好きだった父を送ります。
2007.06.01 金曜日 19:07
個人差はあるようですが、ESWLという治療はなかなか痛い。約一時間、体内に涌いてくるような鋭い痛みと、耳をつんざくような破裂音とに耐えた私にドクターが、「いしがかたいですね」。どうやら『志操堅固』と誉められたわけではなく、結石が狙いどおりに割れなかった、ということのようだ。この時点で最短での退院はなくなった。
翌日の午前中、レントゲンで治療の効果を確認するが、予想通りほんの少し欠けただけ。しかもこの石、「硬い」と評価されたにもかかわらず、卑怯にも骨盤の間に逃げ込んでしまった。こうなるとESWLの効果が出にくいという。だが放置すれば、土曜以来いくつ使ったかわからない、あの鎮痛剤からも離れられない。案の定、背面からでは照射が出来ず、全面から衝撃波を下腹部に叩き込む(って文字にすると実に恐ろしい)治療を行うことにした。脂汗だけでダイエットできそうなくらい、前日よりも遥かに痛みを伴う治療だった。
それから数時間、鎮痛剤を我慢して、痛みの変化に神経を尖らせた。そして夕方、約一週間ぶりに下腹部につきまとっていた鈍痛が消滅した。効果があったらしい。
三日目。レントゲンで、石が大分小さな破片になっていることを確認し、退院の許可が出た。排石はまだだから、突発的な痛みの可能性はあるが、当初の「七転八倒」は避けられるという判断だった。
ということで、生還しました。石が貯留したままなので、まだかすかな違和感がありますし、薬の服用も義務づけられていますが、とにかく放免となりました。不慣れな土地で、たった一人で痛みに耐え、入院生活を送る、という、得がたくなくても願い下げな経験でした。
ご心配いただいた皆さん、ありがとうございました。
2007.05.29 火曜日 08:51
甲斐に移ってふた月たち、ようやく当地の風土にも順応し始めたかな、と思える程度になりました。
でも会津の懸念事項は大きくなるばかりで、気持ちの余裕をもって教育・研究に専念するという「長年の理想」には程遠い状態です。
無事に移籍できて浮かれていたわけではありませんが、「魔」はどこかに潜んでいたようです。今日、これから一泊二日の予定で病院に入り、ESWLという治療を受けます(興味のある方はググってみて下さい)。明日、結果の報告をアップできなかった場合は、何か起ったということになってしまいます。
この週末、前任校ゼミOB、K君の披露宴出席のため、懐かしい加賀へ「里帰り」する予定なのですが、これも今日の治療の結果如何でどうなるか分かりません。
ブログの空白に加え、ご心配をおかけして申し訳ありません>各位
2007.05.01 火曜日 21:34
心配事のため、連休に入るか入らないかのうちに甲府を離れ、会津に戻りました。直線距離なら随分近くなりましたが、最短になるはずの中央高速、東北道ルートは、我が国道路交通の難所中の難所、「都内」を通らねばならず、時間が読めません。そこで、山また山の中央道を逆行し、長野道、上信越道を経て、海沿いの北陸道を北上、再び山道に入り、会津に着いたら相変わらず猫がごろごろしていました。476km。約70km遠くなりました。
心配事は、心配したとおりに進行しています(ご存知の皆さん、よろしくご賢察ください)。体力、気力の勝負が続きますが、負けません。前任校では14年がんばれました。この一件はまだ5年です。
2007.04.30 月曜日 20:33
またしても随分と間隔があいてしまいました。
3月22日に甲府の新居に荷物を運び込んで以来、もう40日。生活基盤の確立を最優先にした最初の1週間。金沢での「退職の儀式」をはさみ、研究室の整備に力を注いで、講義が始まる前に約90箱分の本を並べました。残った50箱ほどを研究室の入り口側壁面に積み上げ、最低限必要な本と空間を確保し、あれよあれよという間に講義開始です。
新たな環境は、総じて快適。研究室の窓から見える桜はなかなかのものです。でも快適さを楽しむ余裕などまったくなく、なにかと当惑することの多い日常です。特に大学の自由さ。当たり前の自由さが、妙に居心地悪く、時に恐ろしくすら感じます。PTSDでしょうか。
こんな日々は、やはりまだ私の「日常」になりきっていないらしく、帰宅するともうぐったり。文章を考える元気はありませんでした。メールだけは辛うじて返信しましたが、コメントや秘密ちゃんには、お返事していないものもあります。こういった事情ですから、なにとぞご勘弁を。
実は4月初旬から、ここ5年来の心配事が悪い方向に進み、大学での活動が軌道に乗っても、私生活はまだ落ち着きそうもありません。
とはいえ、ここまで来れたのは、T嬢をはじめとするOG会の面々、吹奏楽部の部員諸君、犬馬の労を厭わず働いてくれたO君、暖かく送り出してくれた同僚諸賢、友人諸氏のおかげです。そして与えられた願ってもない環境に感謝しつつ、研究者の本分を全うすることこそ恩返しと考えて、がんばっていきます。
2007.03.21 水曜日 23:23
疲れるというのはこの状態をさすのだ、と、いくらでも実感できる1週間が過ぎました。この間に体験した人生の宝物とも言うべき体験はまた後日のこととして、今日一日の出来事をかいつまんで。
朝早くから怒濤の勢いで自宅の荷物の積み込みが行われました。研究室に向かう途中、面倒な用事をこなして駆け付けてくれたT嬢、O嬢、本当に有り難う。S嬢、近所の友人Y氏のご助力で、最後の掃除も滞りなく終わりました。感謝しています。続けてマンションの引き渡しを終えました。同時刻にはT嬢らOG会の差配で研究室の荷物が積み出され、14年に及んだ私の加賀での生活が終わりました。
そしてOBのナイスガイO君の運転する愛車で、日没後ほどなく、甲斐に到着しました。
仮の宿にしたホテルの一室で、小さなパソコンをネットにつなぎ、今日まで私を応援してくれたすべての皆さんに感謝の気持ちをこめて、このエントリを捧げます。