無事に聴けました

今日まで、金沢の「讃岐うどんこ」で10周年記念イベントをやっていた(らしい)。複数の関係者から実況メールが届いたが、大変な人の入りだったとか。大慶至極。行きたかったなぁ。


既にアナログ録音装置は全廃して久しい。つい先頃、FMチューナー自作計画を発動し、「FM変調ってかなりいける」ということに気づいたものの、昔懐かしいタイマー録音に必要な機材を整える気にはならない。近所の家電量販店のパソコンコーナーで何か見かけたような…という曖昧な記憶を頼りに、ゲットしてきたのがこれ。
パソコンのデジタルノイズは、特にAM波と相性が悪いらしいが、2mほどもあるUSBケーブルをめいっぱい伸ばし、窓際にリードアンテナをピンと張った状態で、FMの受信には問題なし。AMは確かに苦しいが、この建物の中ではAM波はおしなべて弱いし、日没後は受信状態が良くなったから、おおむね良好と言える。

携帯プレーヤなどでの聴取を念頭に置いているのか、録音フォーマットがmp3だけなことと、アンテナ端子に同軸ケーブルを繋げないことが難点と言えば難点だが、ちょっとした工夫で何とでもなるだろう。良い買い物だった。

ただ、塾歌の音源は頂けない。もっと朗々とした演奏があるだろうに。たとえば昭和11年の新塾歌初演の際に関係者に配布された録音盤とか(ぶつぶつ、ぶつぶつ)。

明日の日曜にはFMでも

信時裕子氏(信時潔のお孫さん)のブログで、明日の「日曜喫茶室」の話題が。信時裕子氏とは、『海道東征』のスコアやCD集の購入の際に何度かメールの遣り取りをして、時々ブログを拝見していた。久しぶりに覗いてみると、NHK-FMの「日曜喫茶室」出演の紹介エントリが。

信時潔の残した膨大な校歌・社歌は、裕子氏の手によって分類整理されているが、最近そのリストを見ていて、我が出身校・会津高校とは切っても切れなかった縁の会津女子高校の校歌「花咲き乱れ雪降りしきる」も信時作品であると知った。会女の校歌なら、会津高校の「飯森山の桜花」、旧制会津中学の「駒の嘶き砲の音」と同じくらい、ソラで歌える←何故だ(^^ゞ

懐かしさ満点で番組表(このあたりとかこのあたり)を探してみると、さすがに、なんでもかんでも共学にすれば同権だと文化も歴史もへったくれもなく唯物的表層的にしか物事を考えられない進歩的(笑)な御仁が教育界を牛耳ったに違いない県の片隅で石碑に名を残すのみとなった学校の校歌は流れない(ぜぇぜぇ、ゲホッゲホッ)。

でも、塾歌が流れるじゃないか。音源は現在も発売中のCDか。

で、ハタと困った(←今ここ)

3年前に金沢を離れるとき、メカニカルな部分で修復不能だったFMチューナーを処分した。そして甲府に移って最初に動作しないことを確認したのがカセットデッキだった。死語の世界に行ってしまった「エア・チェック」の亡霊の祟りだろうか。録音はともかく、せめて自慢の音響機器を通して聴きたいのだが、『低ゲインの単段真空管アンプによるバッファー付きFMチューナー』はまだ試作途中で、しかも実験の過程で肝心のFMモジュールICをいじり倒してしまったorz。代替モジュールは明後日、秋葉で買うつもりだったのに(;_:)
(このプロセスは、2年前の作例から停滞しているaudioカテゴリーでいずれまた)

いま、この部屋でFM波が受信出来る機械は、防災用の手回しランタン・ラジオと、同程度の性能の小型ラジオだけ。音質は…、考えるだけむなしい。

明日の午後まで、最小の労力と支出で最大の効果を上げ、晴れて塾歌を楽しみたい。

生理的に受け付けないこと



会議

以上。


あっ、今一瞬意識が(^^ゞ

私は恐らく、同年代の同業者の中では平均的な蔵書家ではないかと思っている。手元に置かなければ商売にならない専門書は極力所蔵するよう努めているが、刊本になっていないものはどうしようもないし、入手が困難だったり、自分の中で優先度が低かったりすれば、図書館に電話して解決することもしばしばある。だから「平均的」と考えるのだが、会議の連チャンの次くらいに悲しいダブリ本以外は手放すことがないので、必然的に本は増える。(実は、本は真夜中の人気のない時分に分裂して増えているのだが、心のまっすぐな一部の弟子しかこの説が理解できないのは残念だ)

要するに本は脳みその一部であり、そこに書かれている情報を正確に呼び出したいとき、すぐ手に取れるところにあって欲しいから、捨てることなどできない。では、これが電子化されていたらどうか。スペースファクターは言うに及ばず、「検索」という最強の武器を使えるという点で、電子化された図書には価値があると思う。だが、私には辞書類が限界だ。モニターで長文を読むのは辛すぎる。だいたい、リフレッシュレートが60kHz程度じゃ、モニターと紙を比較することすらできない。無意識下における情報視認性についても、紙媒体の圧勝ではないだろうか。

いつものボ2ネタからスラド経由で、書籍のpdf化サービスとやらの話を読んだ。これは、ダメだ。

1冊100円で、本をバラしてスキャナにかけ、pdfを作り、バラした本は捨てるという。PCとネットの普及で構造的に苦しんでいる印刷屋さんの、まさに苦肉の策だが、原版を起こし、輪転し、一旦紙媒体として製本したものをバラして、取り込んで、誤認識を覚悟の上でOCR処理をして、紙は捨てるだと?。これは印刷業界にとって自殺行為ではないのか。どうしてもPCや各種ポータブルデバイスで読めるデータで欲しいなら、オフセット原版を作る前のデータをpdf化すればいい。つまり、輪転機を回す人々はいらない、ということだ。

私の研究室にはフラットスキャナの他にScansnapが一台あるし、学内を探せば本をバラせるくらいの裁断機はあるだろうが、こんなこと、殺されてもやらない。あまりに不愉快なので、スラドからリンクされている業者のURLは書かない。

甲斐の春

実家の母と電話で話をしていて、「水仙が咲いた」という話題が出てきた。父が好きだったから、実家の庭には幾群も水仙が花をつける。が、甲府の春に、白や黄色を目にすることは余り多くない。単に意識しないだけかもしれないが、やはりこの土地の春は桃の色に染まる。

土日と、桃の産地では花を主役にした祭りが開かれるため、大変な賑わいとなる。もとより細い農道しかないところに観光客の車が大挙して押しかけるわけだから、その混雑たるや筆舌に尽くしがたい。だから、金曜の昼下がり、カメラを抱えて桃色に染まった山裾をドライブしてみた。既に満開のところも、あと一日二日かというところもあったが、桃も盛りのみ観るものでもない。

とある山の公園では、僅かに盛りを過ぎた桜と桃を同時に楽しめた。

このあたりには薄紅色の桃が目に着く。微かな稜線がないと、ピンクが多すぎで目がチカチカしそう(笑)

暑くも寒くもない良い季候だが、空色があれば更に幸せが増しただろう。甲府の高台からみた桃色の絨毯に近づくとこんな感じ。

濃い色の花を着ける木も。どんな実がなるのか、非常に楽しみだ。

桃は全て、実を取るために人工的に栽培されており、程なく余計な花も摘まれてしまうのだが、いま咲いている花、この極限の人工美はなんと表現していいか分からない。

農道と畑は(山の斜面のため)石やブロックで仕切られることが多いようだが、時々菜の花が。耳を澄ましても麦笛は聞こえないが、ひそやかな山村暮鳥の世界。


次の春には黄色と桃色をきれいに並べて写してみたいものだ。
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神は坐す

テレビで御柱の木落を視た。生で見たいと思っていたが、今年だと気づいたのがほんのちょっと前のことで、手も足も出ない状態。誰か写真を撮ってきてくれるのを待つつもりでいたら、BS hiで生中継するというじゃないか。

途中、やむなく退席した数十分を除いて、SHFなんていう短波長の衛星波を経由してだが、迫力の木落を鑑賞し、正直感動した。で、こんな文句を思い出した。

神は人の敬うによて威を増し、人は神の徳によて運を添う

(御成敗式目第一条・原文は漢文)

どれほど国が乱れ、疲弊しても、人の心の中に神は坐(いま)す。

光はのどか

気温は適切。風は微か。降ったり寒かったり、はたまた暑かったりと落ち着きのない気候が続くと、こういう「普通の春」の様子が嬉しかったりする。

今日から(新)ゼミ5期が発足。苦しい就活に挑みつつも明るく迎える4期の諸君とともに、大いに学び、歩き、遊んでほしい。

今日からご出講の客員の先生を囲む夕食会が開かれ、知的刺激に充ち満ちた時間を過ごした。会場に移動する途中、先生を甲府盆地を一望する高台にご案内し、散り敷く桜を堪能。

この写真、画面の左隅に虹色のラインが。強い光源がレンズに向いていたのか、レンズの汚れか(^^ゞ

振り返って盆地の東側を見ると、ピンクの絵の具を流したような一帯が。この週末は桃の花が見頃。遠望するとピンクの絨毯になる。

この風景だけで、ものすごく得した気分。
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