検察審査会法の改正

二次曲線的に議論、もっぱら反対論が高まる中、裁判員法が施行された。もとより、今次の裁判員制度が最良であるはずもなく、制度の存続のためにも直ちに改正を要するような規定も見受けられるが、国民の司法参加が緒に就いたことを、静かにかみしめたい。

いやしくも民主主義を標榜するなら、三権のひとつが、主権者たる国民の意思と無関係に発生、機能、存続する状態を黙過してはならない。問題点を洗い出し、早急に改善することは容易ではないが、司法参加の理念を消し去るような脊髄反射的反対論は厳に慎むべきである。国民の司法参加は、「お上のお裁き」から脱却するために、避けることの出来ない階梯なのだ。

常々、法学の講義でも取り上げてきたことだが、裁判員法と同時に改正検察審査会法が施行され、「起訴議決」制度が導入された。これまでは全く法的拘束力を持たなかった審査会の議決だが、「起訴相当」(全11人中8人以上の賛成を要す)を二度行うと、事件は検察官の手を離れ、自動的に起訴されることになる。検察官による起訴独占主義に風穴を開ける(かもしれない)改正である。

今日、ある事件の遺族が、検察審査会に申立を行った。花火大会の警備に関して、警察署長、副署長の責任を認めず不起訴とした検察に対し、これまで、起訴相当の議決が複数回なされた。が、検察は不起訴の方針を崩さなかった。遺族は、新しい制度のスタートの日、何度目かの申立を行ったのである。

起訴議決によって、警察幹部の刑事責任が法廷で判断される可能性が生まれたのだが、遺族が期待する結論に至るかどうかは予断を許さない。「起訴議決に基づく公訴」は、検察官に代わって、裁判所の指名する指定弁護士が公訴を提起し公判を維持する。これまでも希に行われることがあった「準起訴手続」と同様のプロセスをたどるのだが、組織力を最大限に発揮して証拠を収集し、公判に望む検察官の役目を、個人の弁護士が行うのだから、その苦労は察するに余りある。指定弁護士が任に当たるのは、起訴を肯んじない検察官を排除する必要があるからだが、検察の組織力をもってしても公判を維持しうる証拠を得られなかったため不起訴とした、という事案の場合、個人である弁護士が、検察組織以上の証拠収集能力を示しうるか。悲観的にならざるを得ない。

だが、この制度も、国民の司法参加の一局面である。これまで置き去りにされた感のあった被害者が、法廷に向かって声を発するのである。被害者参加制度然り、付帯私訴また然りである。これで被害が回復され、無念が癒される、ということはなくても、門前払いより遙かに良い。間接的ではあるが、悲惨な事件の遺族を慰撫することも、司法の大切な責務なのである。「お上のお裁き」は、講談本の中の特殊なエピソード以外、遺族のことなど考えてはいない。ここから脱却する時がようやく来たのだと信じたい。

ある高裁判決を聞いて

福岡の、悲惨な交通死亡事故に関する二審判決が大きく報道されている。業過を適用した一審の判断が破棄され、危険運転致死が適用されたのだ。妥当な判断といえよう。

飲酒運転死亡事故の悲惨さに比して業過の法定刑ではあまりに軽い、という被害者遺族の声をうけて危険運転致死傷罪が制定されたことを思えば、検察に業過への訴因変更を命じた福岡地裁の判断を支持することはできない。だが、福岡地裁の苦悩も、わからないでもない。
(危険運転致死傷)
第二百八条の二  アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は十五年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。
これが分かり難すぎるのだ。

この条文は当初、四輪車のみを対象としていた。二輪や原付では、どんな無茶をしてもこの条文の対象にはならなかった。改正されたのは平成19年のことだ。立法者は自分で運転することなく案文を練ったのか、と勘繰りたくなる。少なくとも運転に慣れていれば、「正常な運転が困難な状態」などという曖昧な要件を法廷に丸投げするとは思えない。

これを適用する裁判官も気の毒だ。当時者が事件発生当時、アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態であったかどうか、いつでもどこでも揺らぎなく正確に判定することなど、出来るはずがない。アルコールに対する適応力も酒好きと下戸とでは全く違うから、仮に摂取したアルコールの量や、血中アルコール濃度が正確にわかったとしても、基準にはならない。当然、個々の事例で判断が分かれても仕方がない。そもそも、裁判官は運転しない(と聞いている)。

だが、現実に事件が起こった時、それが、少量の酒を飲んだ下戸と、それこそ浴びるほど飲んだ酒豪とが、同程度に「正常な運転が困難な状態」に陥った結果だったとしたら、どちらがより「悪い」と感じられるか。福岡地裁の判断は、恐らく、健全な市民感情とは反対を指していると思われる。高裁は、それを是正した。弁護側は早々に上告の意思を明らかにしているから、最高裁によって、この不出来な条文に一定の解釈指針が与えられることになるだろう。括目して待つことにする。

この判決を「感情的」と避難するのは被告人の弁護人だが、感情のこもらない判決に、当事者の納得を導く力はない。だからこそ、市民の感覚に照らして妥当と思われる判断が必要なのだ。

ところで、訴因変更がなされ、裁判員対象事件が非対象事件になった場合、あるいは逆のケースでは、どういう措置が執られるのか。忙しさにかまけて勉強不足だな。

会津にて

なんだかほとんど住所地にいないんじゃないか、という気がしないでもない今日この頃。博多から戻って、どうにも気合が入らず、ルーティンワークを遺漏なくこなすのが精一杯という有様。脳の記憶領域、ないし思考領域がひどいフラグメント状態に陥ったような気分で、論理的、体系的思考に不自由する日々。商売柄、これは非常に拙い。なんとかしなければと思いつつ、あっという間に連休に。講義が休みになった30日、例によって会津に戻った。

今回の帰省は普段とは違う時間帯に移動したのだが、どこをどう間違ったのか、福島県内で2時間近いロスタイムが。間違ったのは私ではなく時刻表検索サイトのアルゴリズムを作った奴だ、と文句を言っても詮無く、新幹線を降りた郡山で最初の長い待ち時間。たまたま携帯サイトで見かけたパーツショップを探して歩くこと5分少々で、時間が止まったような店を見つけた。秋葉のガード下より遥かに広いが、品揃えと価格はかなり苦しい。でも、最近の基盤付きキットから真空管まで置いた店内を見ていると、妙な居心地のよさを感じてしまう。手持ちが切れていた小物を2、3品買って、ゆっくりと駅に戻る。

次に会津若松でまた長い待ち合わせがあるが、これは検索サイトのせいではなく、「喜多方から国会議員が出ないのが悪い」と言われて久しい。

7時間もかけて帰り着くと、健康と不健康の間を、やや健康寄りくらいまで回復した母と、あくまで他を省みない猫6匹が迎えてくれた。この進歩のない穏やかさは、実にありがたいと思う。

会津では、あちこちで満開の八重桜を見かけた。遅い春に似合いの、濃い紅が美しい。

Birthdayのメッセージを下さった皆さん、ありがとうございます。
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