ある差戻審判決

地元の地方紙の求めに応じ、ある刑事事件の判決についてのコメントを述べた。昨年秋に出た最高裁判決に続いて、本件に関して2度目のコメントとなったわけだが、徹頭徹尾、不自然さの拭えない事件であった。

銀行(元)頭取が、信用保証協会役員に免責決定を撤回するよう求め、その結果代位弁済が成された。検察は、協会役員と頭取を信用保証協会に対する背任の共同正犯として起訴し、役員は一審の有罪判決を受け入れ、頭取は最高裁まで争い、破棄差戻を勝ち取った。その差戻控訴審の判決が、今日言い渡された。

大方の予想通り元頭取は無罪だったが、判決は、最高裁が疑義を示した協会役員の免責撤回、代位弁済を、明確に背任と指摘している。一般に背任の立件は難しいとされるが、高裁は背任行為の存在を認めた。が、協会役員らが背任行為を行うきっかけとなった元頭取の行為については、頭取としての正当な行為と認め、共謀の存在を認めなかった。

検察の考えた図式に無理があったということであろうが、それにしても不自然な事件である。銀行の融資、融資先企業の倒産、担保の不備を主たる理由とする免責決定、頭取の要求、免責撤回と代位弁済決定、という流れのいたるところに、消化できない不自然さが見え隠れしている。資料を読めば読むほどわからない。何一つ見えてこない。

後味の悪い事件であった。検察には、より一層の捜査能力向上を期待したい。今回感じた不自然さは、恐らく犯罪かそれに近い何かが隠れているからに違いない。直ちに市民生活を脅かす種類のものではないが、確実に法を破る何かがある、そんな気がする。地道な内定捜査の末にそんな潜在化した犯罪を白日の下に晒し、法の裁きを受けさせることができる機関は、検察しかないのである。

二つの判決

この辺の記事を読めばわかる通り、正反対の判決が出された。法と良心にのみ従った結果が、全く反対の結論に至った訳だが、新聞各社の報道を見るかぎり、担当判事の苦衷は察するに余りある。

そもそも、ハンセン病に対する誤った理解を是正せず放置した国に責任がある今回の問題だが、こと、今次判決に絞って考えるなら、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」を一読する必要があろう。この法律が、2組の裁判官に、かくも苦しい解釈を強いた。立法不作為はまだ続いている。

新しいレンズ到着

合焦精度もかなり高め。早速こんな写真を撮ってみた。

下弦の月


『月齢21.7』
Canon EOS 10D, SIGMA APO 70-200mm F2.8 EX DG HSM
ExposureTime - 1/8 seconds
ApertureValue - F 13.00
ExposureBiasValue - 0.00
Flash - Not fired
FocalLength - 200 mm
ExposureMode - Manual
WhiteBalance - Auto
ISO Value - 100
Focus type - Auto

Photoshopでトリミング後アンシャープマスク処理

BGM: ニコライ『ウィンザーの陽気な女房たち』より「月の出の合唱」

ただ、レンズ自体が物凄く重いので、手持ちでブレずに撮るのは至難。野良猫を求めて彷徨い歩く予定だったのに・・・。

学校教育と吹奏楽

石川県吹奏楽連盟他主催の『吹奏楽の祭典』を聴きに行った。知り合いのお嬢さんが参加するということで、入場券を頂き、OGのS嬢とともに、数年前にオープンしたシューボックス型ホール*1に向かう。入口で200円払ってプログラムを買い、今回の出場団体に関する情報を仕入れるが、開場15分で平土間も2階正面席もいっぱい。止むなく3階の側面席を確保*2

出場するのは、吹奏楽コンクール北陸大会で金賞を受賞した中高4校ずつと、中学生の選抜バンド。最初の中学校がステージに登場した時点で、既に我が目を疑う。そしてプログラムを見直す。出場するのはすべて公立の学校。なのにステージ上には、私の月給の数ヶ月分もしそうな高価な楽器がずらり。これだけで、石川県というところの文化に対する意気込みを感じる*3

演奏は、水際立って、それは見事なもの。まぁ、私はコンクールが好きじゃないので、審査員的な批評は慎むが、良くトレーニングされたメンバーが、単なる軽業にとどまらない音楽的な内容を目指していることが伝わってくる、一言でいって素晴らしい演奏だった。

件のお嬢さんは3番目の出場団体。最初の学校と、この3番目の学校が、先日行われた全国大会に出場した。他の2校は、俗に言う「ダメ金」だったのだが、その差は歴然としている。音が全然違うのだ。他の2校は、上手が操る楽器の音が生で飛んで来てしまうのに対し、全国出場バンドの音は、バンドとしての方向性を持った、良くブレンドされた音。指導にあたられた先生のご努力や如何ばかりか、と頭が下がる思い。もちろん、お嬢さんのいる学校の演奏も大変に素晴らしい*4

続けて高等学校の演奏。3つ年上だというだけで、こんなに大人びた演奏になるのかと、また驚く。ここでは、全国大会の常連である工業高校の演奏を楽しみにしていた。予想以上に凄い。続いて登場したのは、今年全国に初出場した普通科の高校。これは全然違うカラーだが、やはり凄い。人口100万の県で、こんなに凄い吹奏楽部を擁する学校がごろごろしている。この土地は一体、どういうところなのだろうか。

それにしても、出場8団体のすべてに共通するのだが、男子生徒が殆どいない。最も重たいチューバを軽々と操る、決して大柄とはいえない女子生徒を何人も見て、認識が変わる。だが、これが「Swing Girls」効果だとしたら、ちょっと嫌かも*5

最後に中学生選抜バンドの演奏。これはさすがに練習時間が少ないせいで纏まりを欠く。でも最後のプログラム「ディスコ・キッド」は、巧拙の問題抜きで楽しかった。1977年の課題曲。私も、田舎の中学校で、自分たちの実力を遥かに越えるこの曲に挑み、とてもじゃないが人様に聴かせられるような演奏はできなかったことを思い出す。でもこの土地の中学生たちは、立ったり座ったり、演奏しながら楽器を振ったり、軽々と、しかも実に楽しそうに吹きこなしている。この実力の差はどこから来るのか。

今日のタイトル「学校教育と吹奏楽」。私はこんなことを考えていない、という程度の意味。

  • *1 : このホールは大きさが中途半端で、大人数の楽団を入れるのはいかがかと思う。
  • *2 : このホールは音圧分布に難があり、1階屋根無し部分以外はどこに座っても同じ。
  • *3 : 私の出身県では、こんな楽器見たことがない。
  • *4 : 曲の解釈については賛否が分かれそうだが。
  • *5 : 演奏はいずれも素晴らしいものばかりで、流行を追っているだけでないことは明らかだが、そうすると、真面目に楽器に取り組もうという男子生徒があまりに少ないことが寂しい。

ふたたび信時潔

新保祐司氏の『信時潔』*1を読んだ。正確には学祭騒動の直前に読み終えていたのだが、一連のバタバタで、記事にするのが遅れてしまった。入手したのは更に前、夏休みの直前に届いていたはずで、読みながらこの夏の神経戦を思い出したりもした。

さてこの本は、都留文科大学教授、文芸評論家である新保氏ならではの視点からみた「信時論」であり、単純な時系列的な伝記とは違う。まず同時代に現れた文学、美術作品と作者の言葉を通じ、信時とその作品を浮かび上がらせている。信時作品で最も知名度の高い「海ゆかば」について、思いがけないような人物が、単なる讃辞には止まらない言葉を述べているのを読むと、不幸にして、戦争という国家の死命を制する重大事に多用されてしまったこの曲の運命を感じずにはいられない。

信時の実父、吉岡弘毅は攘夷思想を持った武士で、維新後、弾正台に職を奉じ、そこでキリスト教に触れて牧師に転じたという。信時の音楽体験は、幼少期、父の教会で奏でられる賛美歌から始まったと思われる。信時自身も、東京音楽学校を一旦退学し、救世軍に加わるなど、キリスト教思想の影響を色濃く受けている。バッハを敬愛し、当事流行の最新の音楽書法には批判的であったという話は、彼の作品を聴けば容易に納得できよう。

新保氏は、信時の作品として「海ゆかば」とともに、オラトリオ「海道東征」を繰り返し取り上げておられる。不勉強な私はこの作品を知らなかったのだが、読了後直ちに、現在購入できる唯一のCDを手に入れ、繰り返し聴いている。バッハに通じる、決して奇を衒うことのない音楽の進行に合わせて語られるのは、北原白秋の詩。そしてそのモチーフは、言うまでもなく神武東征伝説である。「海ゆかば」と同様に、日本の古典に取材し、その言葉の美しさを損なわない音楽が、そこには存在する。決して西洋一辺倒ではなく、日本の精神史にも深い造詣を感じさせる音楽なのである。

「海道東征」については別項に譲るとして、本書に戻ろう。新保氏が、信時の人物像を伝えるエピソードとして取り上げたいくつかの逸話の中で、ふたつ、強く心に残ったものがある。ひとつは山田耕筰との対比だ。同時代を生き、同じ時代の要請で曲を書いた二人だが、山田は戦後、機敏に立ち回り、自己の行動から「戦争の陰」を払拭した。しかし信時は、自身を潤色する言葉を弄さず、戦前、戦中と変わらぬ作風を保った。信時が戦後、楽壇において山田に遅れる印象をもたれる由縁であろうか。このブログの読者諸彦、可能ならば、「からたちの花」と「海ゆかば」のメロディーを思い浮かべてみてほしい。私はこれが、山田と信時の相違そのものだと思う。そして私は、信時の音楽に現れた彼の精神性に強い共感を禁じ得ない。

そしてもう一つのエピソード。これは、本書に紹介された信時の言葉を引用させてもらおう。

 音楽は野の花の如く、衣装をまとわずに、自然に、素直に、偽りのないことが中心となり、しかも健康さを保たなければならない。たとえその外形がいかに単純素朴であっても、音楽に心が開いているものであれば、誰の心にもいやみなく触れることができるものである。日本の作曲家で刺激的な和声やオーケストレーション等の外形の新しさを真似たものは、西洋作曲家のような必然性がない故に、それの上を行くことがはきない。自分は外形の新しさを、それがどうしても必要とするとき以外は用いない。外形はそれがいかに古い手法であっても。*2

信時の音楽を語るには、この信時自身の言葉が最も雄弁であり、必要にして十分である。音楽について述べた言葉ではあるが、これは日々変化する社会の中で、半ば流れるように生きている現代人にも、重い教戒として響く。勿論、私自身にも。

  • *1 : 構想社刊 ISBN4-87574-069-7
  • *2 : 同書pp187-8

違和感

首相の靖国参拝の様子をテレビのニュースで見た。「靖国」は今や、日本と中国、韓国、北朝鮮3国との関係において、腫れ物状態にあるといえる。

今日、法制史の講義の冒頭で、靖国をめぐる論点のいくつかを紹介した。どのような方向であろうと学生一人一人が「考える」ことを強く期待したからだ。私自身、この問題を適切に解決する妙案などない。

午後、末の弟子と、マックでハンバーガーをかじりながら、この問題について更に会話をした。彼女は研究室で、書棚から芦辺憲法を取り出し、政教分離について考えていた。我が国においては、ヨーロッパのように宗教的権威と世俗的実権とが対立したという記憶がないため、「政教分離」が、「国家神道の否定」という限定的意味に用いられがちであることを説明した。

そもそも「国家神道」なる発想が現われるのは明治以降であり、孝明天皇を亡きものにした堂上公家や志士どもが、手に入れた「玉」に権威を与え、自分たちの政権運営を安定させるために編み出した装置である、というのが私の立場だ。ほんの一時的に、急進的国学者、神道家が政権の中枢近くに存在したが、歴史が動くほど世俗権と対立したことはない。対立できるほどの理論も実力も貯える余裕さえなく、彼らは歴史の表から退場する。しかし数十年後、それが戦争遂行のための精神的縛りとして機能した苦い経験から、国家神道の否定を念頭に、日本的な政教分離原則が立ち上がった。

神道は、神話に現われた神々を始め、自然に存在するあらゆるものに霊性を認め、崇め、恐れ、感謝する、自然信仰から発生した、いたって原始的な信仰である。あまねく広く戦闘的性格を認めることなど不可能な、素朴な信仰に発するものが、何故、戦争のための道具になったか。その点に関する総括がなされていない。

国家の首班が、国のために命を落とした人々を慰霊しない国家があるだろうか。

A級戦犯が合祀され、以来、天皇陛下の例大祭行幸が行われていない事実は重大だ。だが、A級戦犯として東京裁判の被告人とされた軍人、政治家と、戦犯指名を受けながら、東京裁判の法廷に立つことがなかった人々との違いは何処にあったか。もっと具体的に、何故陸軍省軍務局関係者が死刑となり、参謀本部からは誰も死刑にならなかったのか。統帥権の独立を叫び続け、陸軍省の介入を拒否し続けた人々なのに。一体どのような基準で、被告人の生死が分かれたのか。

広田弘毅は何故、ただ一人の文官として死刑に処せられなければならなかったのか。

国際法上の問題点には、今は触れまい。考えても何一つ答えを得ることはできない。

首相は、参道を歩き、本殿の前でポケットから賽銭を投じ、一礼し、手を合わせ、また一礼した。先日の大阪高裁判決に配慮し、個人としての心情を表すためのぎりぎりの行動と考えられるが、それにしても違和感が強い。神前で二礼二拍一礼の作法を採らないことは、仏前で拍手を打つのと同じくらい非礼ではないか。そんな変則的な作法でなければならないのは何故か。本来、心の平穏のために存在する宗教施設がかくも騒がしいのは何故か。いくら考えても、違和感は強まるばかりだ。

60年もの間、歴史の総括を行わずに来たことへの、重い重いツケがそこにあるような気がする。

撤収完了

外ではまた、最後の売り声が囂しいが、当研究室は現役、OBOGの活躍で早々と撤収完了。研究室の応急掃除もできて一安心。

模型の出来は上々。遠方から駆け付けてくれた卒業生諸君とも、久々の楽しい時間を過ごすことができた。

展示物の写真は、一部(かなり)残虐な表現が含まれているので、まず公開方法を検討するつもり。「とにかく見たい」という方は、メールで問い合わせられたい。

どうもありがとうございました。>ご協力、ご声援を賜った各位

大騒ぎ

学祭前夜の狂騒、未だ継続中。

現役の学生に加え更に多くのOBOGが集まり、自然発生的分業体制で怒濤の突貫作業。恒例により全員でテイクアウトの弁当(今年はカレーか)で夕食を済ませ、辺りに人気がなくなるのも気にせず、あるものは展示品を並べ、またあるものは搬送途中で壊れた人形の修理に当たる。また片づけを始めるもの、血まなこで何かを探すものなど、秋の夜長にふさわしいかどうかは別として、我が弟子たちの熱い夜は続く。

学園祭準備

今日もF嬢O嬢が来援し、研究室のにぎやかなこと。3年生の1号と末、末の友人に加えて、4年生も合流し、一気に加速化と思いきや、模型作製は遅々として進まない。これも当研究室の慣例で、余裕があろうと無かろうと、各自がやりたいことをやってしまう。ほぼ単独で作業を進める1号の双肩にすべてが委ねられた格好。今年は私が別件で時間を取られているため、1号の負担は否応なく重くなる。

日没が近づき、模型に必須の人形に取り組んでいた末の様子がだんだん変になる。「世界が終っちゃえばいいんだ」と、作りかけの人形に悪態をつく。思い通りにできないのでいらいらしているらしい。が、O嬢が昼間に買い置いたおにぎりを渡すと、途端に機嫌が直った。単に腹が減っていただけか。わかりやすい奴。その上、1号が持って来た赤飯のおにぎりを手に取ったり離したり。わかりやす過ぎるぞ、おい。

募集

このブログのタイトルを変えようと思います。ついては御覧の皆さん、良いタイトルを思いつかれたら、コメント、メール、秘密ちゃん、直接話しかけるなど、どんな方法でも構いませんからお寄せ下さい。

現在のタイトルは、スクリプトを仮運用する時にいいかげんに付けたもので、あまりに陳腐。

ゼミ関係者から寄せられたアイディアは
    『にゃんこ星』『男星』(5期S嬢:なんだかよくわからんな、特に後者が)

    『大奥の日々』(末の弟子:「OGがいっぱいだから〜」って、単位はいらないようだな)


お待ちしています。

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