2005.10.17 月曜日 22:44
違和感
首相の靖国参拝の様子をテレビのニュースで見た。「靖国」は今や、日本と中国、韓国、北朝鮮3国との関係において、腫れ物状態にあるといえる。
今日、法制史の講義の冒頭で、靖国をめぐる論点のいくつかを紹介した。どのような方向であろうと学生一人一人が「考える」ことを強く期待したからだ。私自身、この問題を適切に解決する妙案などない。
午後、末の弟子と、マックでハンバーガーをかじりながら、この問題について更に会話をした。彼女は研究室で、書棚から芦辺憲法を取り出し、政教分離について考えていた。我が国においては、ヨーロッパのように宗教的権威と世俗的実権とが対立したという記憶がないため、「政教分離」が、「国家神道の否定」という限定的意味に用いられがちであることを説明した。
そもそも「国家神道」なる発想が現われるのは明治以降であり、孝明天皇を亡きものにした堂上公家や志士どもが、手に入れた「玉」に権威を与え、自分たちの政権運営を安定させるために編み出した装置である、というのが私の立場だ。ほんの一時的に、急進的国学者、神道家が政権の中枢近くに存在したが、歴史が動くほど世俗権と対立したことはない。対立できるほどの理論も実力も貯える余裕さえなく、彼らは歴史の表から退場する。しかし数十年後、それが戦争遂行のための精神的縛りとして機能した苦い経験から、国家神道の否定を念頭に、日本的な政教分離原則が立ち上がった。
神道は、神話に現われた神々を始め、自然に存在するあらゆるものに霊性を認め、崇め、恐れ、感謝する、自然信仰から発生した、いたって原始的な信仰である。あまねく広く戦闘的性格を認めることなど不可能な、素朴な信仰に発するものが、何故、戦争のための道具になったか。その点に関する総括がなされていない。
国家の首班が、国のために命を落とした人々を慰霊しない国家があるだろうか。
A級戦犯が合祀され、以来、天皇陛下の例大祭行幸が行われていない事実は重大だ。だが、A級戦犯として東京裁判の被告人とされた軍人、政治家と、戦犯指名を受けながら、東京裁判の法廷に立つことがなかった人々との違いは何処にあったか。もっと具体的に、何故陸軍省軍務局関係者が死刑となり、参謀本部からは誰も死刑にならなかったのか。統帥権の独立を叫び続け、陸軍省の介入を拒否し続けた人々なのに。一体どのような基準で、被告人の生死が分かれたのか。
広田弘毅は何故、ただ一人の文官として死刑に処せられなければならなかったのか。
国際法上の問題点には、今は触れまい。考えても何一つ答えを得ることはできない。
首相は、参道を歩き、本殿の前でポケットから賽銭を投じ、一礼し、手を合わせ、また一礼した。先日の大阪高裁判決に配慮し、個人としての心情を表すためのぎりぎりの行動と考えられるが、それにしても違和感が強い。神前で二礼二拍一礼の作法を採らないことは、仏前で拍手を打つのと同じくらい非礼ではないか。そんな変則的な作法でなければならないのは何故か。本来、心の平穏のために存在する宗教施設がかくも騒がしいのは何故か。いくら考えても、違和感は強まるばかりだ。
60年もの間、歴史の総括を行わずに来たことへの、重い重いツケがそこにあるような気がする。
今日、法制史の講義の冒頭で、靖国をめぐる論点のいくつかを紹介した。どのような方向であろうと学生一人一人が「考える」ことを強く期待したからだ。私自身、この問題を適切に解決する妙案などない。
午後、末の弟子と、マックでハンバーガーをかじりながら、この問題について更に会話をした。彼女は研究室で、書棚から芦辺憲法を取り出し、政教分離について考えていた。我が国においては、ヨーロッパのように宗教的権威と世俗的実権とが対立したという記憶がないため、「政教分離」が、「国家神道の否定」という限定的意味に用いられがちであることを説明した。
そもそも「国家神道」なる発想が現われるのは明治以降であり、孝明天皇を亡きものにした堂上公家や志士どもが、手に入れた「玉」に権威を与え、自分たちの政権運営を安定させるために編み出した装置である、というのが私の立場だ。ほんの一時的に、急進的国学者、神道家が政権の中枢近くに存在したが、歴史が動くほど世俗権と対立したことはない。対立できるほどの理論も実力も貯える余裕さえなく、彼らは歴史の表から退場する。しかし数十年後、それが戦争遂行のための精神的縛りとして機能した苦い経験から、国家神道の否定を念頭に、日本的な政教分離原則が立ち上がった。
神道は、神話に現われた神々を始め、自然に存在するあらゆるものに霊性を認め、崇め、恐れ、感謝する、自然信仰から発生した、いたって原始的な信仰である。あまねく広く戦闘的性格を認めることなど不可能な、素朴な信仰に発するものが、何故、戦争のための道具になったか。その点に関する総括がなされていない。
国家の首班が、国のために命を落とした人々を慰霊しない国家があるだろうか。
A級戦犯が合祀され、以来、天皇陛下の例大祭行幸が行われていない事実は重大だ。だが、A級戦犯として東京裁判の被告人とされた軍人、政治家と、戦犯指名を受けながら、東京裁判の法廷に立つことがなかった人々との違いは何処にあったか。もっと具体的に、何故陸軍省軍務局関係者が死刑となり、参謀本部からは誰も死刑にならなかったのか。統帥権の独立を叫び続け、陸軍省の介入を拒否し続けた人々なのに。一体どのような基準で、被告人の生死が分かれたのか。
広田弘毅は何故、ただ一人の文官として死刑に処せられなければならなかったのか。
国際法上の問題点には、今は触れまい。考えても何一つ答えを得ることはできない。
首相は、参道を歩き、本殿の前でポケットから賽銭を投じ、一礼し、手を合わせ、また一礼した。先日の大阪高裁判決に配慮し、個人としての心情を表すためのぎりぎりの行動と考えられるが、それにしても違和感が強い。神前で二礼二拍一礼の作法を採らないことは、仏前で拍手を打つのと同じくらい非礼ではないか。そんな変則的な作法でなければならないのは何故か。本来、心の平穏のために存在する宗教施設がかくも騒がしいのは何故か。いくら考えても、違和感は強まるばかりだ。
60年もの間、歴史の総括を行わずに来たことへの、重い重いツケがそこにあるような気がする。
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