2010.01.01 金曜日 21:23
有り得可からざる年の初めに
寝ていたので全く見ていないが、今日の未明、月食があったらしい。我が国では明治6年(1873)の1月1日から太陽暦が採用されるが、それ以来初めて観測される元日の月食だ。それ以前の太陰太陽暦では新月を1日とするのだから、月は出ない。
元旦の月が欠けたからといって、女郎の手練手管に誠を見ることはできまい。当世でいえば、選挙公約がこれに当たろうか。紋日近くに届く女郎の文を本気にする野暮がいないのと同じくらい、選挙カーの音質最低のメガホンで叫き散らす「公約」とやらを信じる選挙民は、永田町界隈では浅黄裏扱いされていたに違いない。「マニフェスト」などと読み替えてみても、元はあの「公約」だ。
そのマニフェストを墨守するのと改変するのと、どちらがより誠があるか。できないことを「できる、する」と言いつのり、時の利を失い国民の利益を損なうことと、できないことをできないと認め、できることに切り替えて国民の期待に反すること。ともに、国民への裏切りであり、信を失うこと著しい。問題は、できないことをマニフェストとして国民に示すことだ。国権の最高機関を構成する国会議員が、よってたかって女郎の手紙程度のものしか書けないことがそもそもの間違いだ。それを墨守するなど、狂気の沙汰である。極論すればただの看板、チラシや張り紙のポップ同然の、誰が考えたのかも怪しいような文章を国民に示したことが、諸悪の根源なのだ。
「成長戦略」などという絵に描いた餅は、煮ても焼いても食えない。第二のマニフェストになるのは時間の問題だろう。これ以上、時の利を失っては取り返しがつかない。何もせずに時を移すのなら拙速の方がまだ前向きだ。
老母と猫たちが穏やかに暮らせる世の中であれば、多くは望まない。でも、それが一番の贅沢だ、などと言われる世の中にしてはいけない。
女郎の誠と卵の四角 あれば晦日に月が出ると、戯れ歌に歌われるくらいだから、朔日の月などあり得ないことであり、元日で、その上月食となれば有史以来の大珍事といえる。そんなあり得ないことで始まった2010年に、一体どんなことが起こるのだろうか。
元旦の月が欠けたからといって、女郎の手練手管に誠を見ることはできまい。当世でいえば、選挙公約がこれに当たろうか。紋日近くに届く女郎の文を本気にする野暮がいないのと同じくらい、選挙カーの音質最低のメガホンで叫き散らす「公約」とやらを信じる選挙民は、永田町界隈では浅黄裏扱いされていたに違いない。「マニフェスト」などと読み替えてみても、元はあの「公約」だ。
そのマニフェストを墨守するのと改変するのと、どちらがより誠があるか。できないことを「できる、する」と言いつのり、時の利を失い国民の利益を損なうことと、できないことをできないと認め、できることに切り替えて国民の期待に反すること。ともに、国民への裏切りであり、信を失うこと著しい。問題は、できないことをマニフェストとして国民に示すことだ。国権の最高機関を構成する国会議員が、よってたかって女郎の手紙程度のものしか書けないことがそもそもの間違いだ。それを墨守するなど、狂気の沙汰である。極論すればただの看板、チラシや張り紙のポップ同然の、誰が考えたのかも怪しいような文章を国民に示したことが、諸悪の根源なのだ。
「成長戦略」などという絵に描いた餅は、煮ても焼いても食えない。第二のマニフェストになるのは時間の問題だろう。これ以上、時の利を失っては取り返しがつかない。何もせずに時を移すのなら拙速の方がまだ前向きだ。
老母と猫たちが穏やかに暮らせる世の中であれば、多くは望まない。でも、それが一番の贅沢だ、などと言われる世の中にしてはいけない。