名文には違いないが

いつの日か、弔辞ででも良いから「達意の文章家」なんて言われてみたい。普段から悪文しか書かない(書けない)腐儒でも、文化系を専攻する以上は美しい文章、「名文」に憧れる。何をもって「名文」と定義するか、簡単ではないが、形式、内容、更に語調の美しい文章は、名文と呼んでも良いような気がする。が、これを書こうと思うと、とてつもなく難しい。

毎朝欠かさずに読んでいる新聞。時勢の如からしむるところか、汚い文章が増え続けているように感じるが、やはり当世の文章家が集まるのもやはり新聞だ。地方の小さな新聞社にも「主」のような文章家がいて、キラリと光る文章が紙面を引き締めていたりすると、心嬉しくなるし、赤を入れたくなるような迷文を載せて恥じない大新聞もある。

閑話休題。今朝の読売の一面、「編輯手帳」は、やはり良い文章だった。先代の失火で居町の人々に迷惑を掛けたと、大戸を半開きにして謹慎の意を表し続けた味噌屋さんの話が冒頭にくる。筆が熱を帯び、社保庁、そして農水のデタラメをちくりと刺し、農水幹部の駆け込み天下りを非難する。

幅広い知識に裏打ちされ、ごく僅かな字数で存分に意のあるところを伝えるのだから、立派に名文だ。だがここで筆が滑った。
味噌屋さんを見習えとは言わないが、謹慎の心はどこへやら、民主党政権が発足する前に駆け込みで天下りとは、もらい火で焼け落ちた自民党もなめられたものである
これはいただけない。自民も、出番直前の民主も、ここまでなめられたら、覚悟を決めるのが当然だ。だが「もらい火」とは何事か。恥を知らない官僚の愚行を「火事場泥棒」とでも言うならまだわかるが、もらい火では、自民に責任なきがごとしではないか。

確かに55年体制にとどめを刺したのは、公僕という言葉を知らない一部の不心得者であるし、それを火事で表現するのも理解できる。だが、一部の「店子」が危機意識のかけらもなく火遊びをしていることを「大家」が知らなかったとはいえまい。そしてそんな店子の手の届くところに、大好物の強燃性燃料を起き続けたのは大家なのだから、失火の責任は大家にもある。断じてもらい火などではない。

家作のすべてを失った自民大家の末路や如何に。ここで自身の失火という厳粛な事実を見つめ、しっかり反省しないと、もらい火で焼け出され呻吟している国民は許してくれない。自民の家作がなくなったから、心太式に大家になる民主も、火の元には今以上に細心の注意がいる。熾火が燃え上がるのは簡単だからいちいち消して回りたいかもしれないが、消してはいけない火にまで水を浴びせてしまっては、明日の煮炊きにも困ることになろう。飯も炊けない長屋になぞ、誰が住むものか。
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