2009.09.24 木曜日 18:09
利光三津夫先生の想い出
律令学の大家にして古銭鑑定の第一人者としても活躍された利光三津夫先生が亡くなられた。私が大学院に進もうと決めたとき、法制史学者としての心得を示してくださった大恩人であり、大師匠とお呼び申し上げてきた方である。
先生の学問については、やがて法学研究や法制史研究に、学会の大先輩方の手になる追悼記事が発表されるだろうから、文字通り末弟である私がここで書き散らすことはしない。が、先生が定年で義塾を去られる間際まで、お側近くでその謦咳に接する幸運を得た私が先生から直に頂戴したお言葉、忘れられない想い出を1つだけ書いておこうと思う。
私が前任大に赴任して何年か後の学会でのことだった。前任大学は、まぁ[自主規制]なところで、思うように勉強も進まず、調べ物をしに東京に出るのも意の如くならないという閉塞状況の中、最初のやる気も次第に失せ、一縷の光明を求めて学会に足を運び、何も得られずに陰鬱な職場に戻る、そんなことが何度か続いた。
そんなあるとき、学会会場の休憩室で、短時間だが先生とお話しさせていただくことができた。私の状況を完全に理解してくださっている先生は、「人間いたるところ青山あるなんて思うな」と仰った。先生一流のデカダンで、有名な格言をひっくり返し、萎れている私に活を入れてくださったのだ。
私が曲がりなりにも法制史を専攻する研究者として今あるのは、多くの方々のご厚情のおかげだが、この学問を続けてこられたのは、利光先生のあのお言葉があったからだと思っている。元より浅学非才の身ではあるが、いつの日か、先生の学恩に報いることができるまで、この学問を続けていこう。
合掌
先生の学問については、やがて法学研究や法制史研究に、学会の大先輩方の手になる追悼記事が発表されるだろうから、文字通り末弟である私がここで書き散らすことはしない。が、先生が定年で義塾を去られる間際まで、お側近くでその謦咳に接する幸運を得た私が先生から直に頂戴したお言葉、忘れられない想い出を1つだけ書いておこうと思う。
私が前任大に赴任して何年か後の学会でのことだった。前任大学は、まぁ[自主規制]なところで、思うように勉強も進まず、調べ物をしに東京に出るのも意の如くならないという閉塞状況の中、最初のやる気も次第に失せ、一縷の光明を求めて学会に足を運び、何も得られずに陰鬱な職場に戻る、そんなことが何度か続いた。
そんなあるとき、学会会場の休憩室で、短時間だが先生とお話しさせていただくことができた。私の状況を完全に理解してくださっている先生は、「人間いたるところ青山あるなんて思うな」と仰った。先生一流のデカダンで、有名な格言をひっくり返し、萎れている私に活を入れてくださったのだ。
私が曲がりなりにも法制史を専攻する研究者として今あるのは、多くの方々のご厚情のおかげだが、この学問を続けてこられたのは、利光先生のあのお言葉があったからだと思っている。元より浅学非才の身ではあるが、いつの日か、先生の学恩に報いることができるまで、この学問を続けていこう。
合掌
comments
政治学科に入りました。
利光先生の授業を選択しましたが余り授業には出なくて申し訳なかったと思っております。
私の伯父も慶應義塾大学で教鞭をとったことがあります。
関口謙次といいます。
もうすでに両者とも鬼籍にあります。
伯父は利光先生のことを「リコウチャン」と呼んでおりました。
いまこのサイトをみて利光先生の偉さが
判ります。
懐かしいのは伊藤政寛先生とか石川忠雄
先生です。
私の担任は福澤進太郎先生でした。
とても懐かしく思います。
今私は68歳ですが福島県の南相馬市で
震災復興の道路橋梁設計に従事いたしております。
大変ですが頑張っております。
どうぞ宜しくお願いいたします。
関口陽一
長く放置していたブログに目を止めていただき、大変ありがとうございます。利光先生の大きさが、今更ながら偲ばれます。私が塾に入りましたのは昭和57年で、石川先生が塾長の頃です。その頃、ありがたさも分からなかった先生方も、多く鬼籍に入られました。もっと真面目目に講義を聴き、教えを請うべきであったと悔やむことしきりです。
関口様は南相馬でご活躍とのこと。同県人として頭が下がります。ご活躍の一端など、お聞かせ頂ければ幸いです。
こちらこそどうぞよろしくお願いします。
返信が大変遅くなりました。処理能力を遥かに超える校務を背負ってしまい、専門の新刊書を読むいとまもない日々を過ごしております。何卒ご海容賜りますよう、お願いいたします。
しばらくぶりで御座います。
3月3日にご返事をいただいてから返答できなかったのは、私の業務と言うのは
福島県双相建設事務所の業務で年度末3月末が工期だったのでてんてこ舞いで
過ごしていた為でした週に換算すると
74時間働きました。
設計は原町海老相馬線と小野富岡線です。
大変でした海老相馬線は津波防波堤としての役割を果たします。
重要な仕事です。
なぜ法学部政治学科出身の私が技術の道に進んだのかはわけがあります。
銀行員も経験いたしましたが25歳の時意を決して設計の道に進みました。
独学です。苦労いたしました。
以来40年は設計をしております。
資格も建設コンサルタント協会のRCCM
と一級土木施工管理技師を取得いたしました。
何しろもの造りが好きで人の金勘定をしているのが嫌いでした。
今でも苦労は絶えませんがやろうと思っております。
でも慶応義塾の友達との交流やクラブ活動趣味での交流は一生残るものだと思います。
今義塾には知った先生や友人はいませんので行っても浦島太郎です。
心の中に慶応義塾は厳然として存在しておりどのような事があっても動じません。
又福島県で頑張りたいと思います。
関口陽一