純粋に楽しむための読書

つぶやかない日は殆どないくらい、ネットと隣り合わせの日常、つまり病気をする前の日常に戻っていますが、どうもこのブログはお留守でいけませんな。「見てるんだからまじめに書け」という有り難い叱責も頂戴していますが、秋から始まった今年のオーバーキャパは年明け、年度末まで続くことが確定的で、帰宅後は酸欠を起こしたように靄がかかった脳みそを休ませるだけ、という情けない毎日で、心静かに文章を練る余裕がありません。じゃあどうやって原稿を書くか。大きく息を吸い、気を丹田に落とし、これまで鍛錬してきたことを無心に繰り返す、これに尽きると思います(←おいっ!)

篤実な読書家である同僚氏に刺激され、私なりの方法で実のある読書をしようと心がけていますが、体力と時間が限られてくると、当面必要な専門書に取り組まざるを得ず、どうしても楽しむ余裕がなくなってきます。難解な文献を読み解くことで得られる学問的な快楽に到達する以前に、力尽きてしまうのは非常に拙いのですが、ルーティンに追われる日々のなかでは、本との接し方を工夫しないと義務的な情報収集しかできなくなりそうです。

自分にとって読書とは何か。必要なことであり、半ば義務的な一面もあり、習慣、惰性とも言えそうな気配もあります。でも私にとっての読書とは、能書きを一切抜きにして純粋に娯楽であるということ、この本を読んで思い出しました。
天保バガボンド

天保バガボンド

中央公論新社


笹川の繁蔵と飯岡の助五郎という博徒同士が利根川縁で激突したという天保期の史実が講談本に編まれて「天保水滸伝」になります。『天保バガボンド』は、この「天保水滸伝」を翻案し、大利根川原の大喧嘩を頂点に燃え尽きていく男たちの姿を活写した傑作です。無条件に面白い時代活劇です。

講談によって世に広まった物語はいくらもあります。水戸黄門漫遊記も、大岡越前も、清水の次郎長も、講談という大衆芸能がその普及に重要な役割を果たしました。ところが、講談では勧善懲悪という基本線が堅持されます。水戸様は漫遊などしたことはないし、大岡政談のモデルは鎌倉期に遡りますが、講談本で江戸における絶対的な善として描かれ、以来史実とは無縁のヒーローとなったわけです。博徒を描いたストーリーでも、東海遊侠伝では次郎長が善で次郎長に敵対する博徒はみな悪となり、天保水滸伝では繁蔵が善で助五郎が悪と位置づけられます。正義の味方繁蔵と、新興の繁蔵一家を目の仇と狙う悪人助五郎というステレオタイプが、観客に安心感を与えたのでしょう。ところが、『天保バガボンド』では、少々趣向が違います。

山場はやはり、笹川の花会と大利根川原の大喧嘩、平手の駆けつけということになりますが、繁蔵も助五郎も、義に篤く、私心を挟まず、町の衆を守り抜こうと奔走する大親分として描かれます。笹川の用心棒平手造酒(講談本では御酒か?)と、飯岡の盲目のばくち打ちをモデルにした座頭市を善同士としてからませ、悪役として平手と市の旧知の男を八州廻りに据えています。当時の広域警察に悪を担わせることで、ストーリーは一気に現代人への親和性を高めています。見事な本案の結果、悪の策にはまり、善と善とが激突するという矛盾から生まれる悲劇性が強調されるのです。

もちろん翻案の妙だけではありません。作者は有名な駆けつけの後半、平手に、こんな台詞を吐かせます。
「誰も彼も、昔を今に引きずり、今を昔に引きずって、生きているのだな」
筋の中でこの台詞が持つ意味は読んでからのお楽しみということにしますが、細かい読点の区切りが、労咳で今にも事切れそうな平手の、喉から吐き出される息の音を感じさせます。

歴史の実と物語の虚が切れ目なく流れていて、読み手をその流れに飲み込んでしまうような本格的な時代小説です。
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