2006.05.11 木曜日 23:39
著名事件に関する雑感
ちょっと古い記事だが、「山口県母子殺害事件上告審弁論」で二度、激しいバッシングを受けている安田弁護士のコメントが、東京新聞に掲載されている。
私も、およそ一般的な感覚なのか、安田弁護士の行動には賛同できかねる。だがこの記事を読むと、氏は大変に職務に忠実な人物であるとの印象を受ける。だからといって、氏の行動への否定的な感想を変えるには至らないが。
準備期間が足りないという理由で、最初の期日に出頭しなかったことが、今回のバッシングの発端だが、そもそも安田弁護士は、弁論期日が決定した後に受任したのではないか。いかに膨大な記録を精読しなければならないからといって、期限が迫っているときに受任した責任は重い。それを不出頭という手法で、法廷の権威を損ね、裁判システムに対する国民の信頼を揺らがせた責任は重い。勿論、弁論が開かれる、つまり原審の無期が見直される可能性が出てきて辞任した弁護士の責任も同様である。
そして安田弁護士は、
安田弁護士は言う。
日本で復讐が禁止されるのは明治6年2月、太政官第32号布告による。止まるところを知らない開化の嵐の中で、近代的刑事警察権を独占する必要に迫られた政府の決定だが、この布告を求める「伺」の中で、司法省は、
この布告から130年以上を閲し、時代は変わり、死刑となるべき犯罪の基準もまた変わった。それはいい。だが、個人の復讐が起こらないよう、犯罪者を処罰する国家の義務は変わっていない。もし国家が、この義務を怠っていると思われる状況が現れたら、国民は、国家刑罰権を信頼しなくなるかもしれない。前近代の、自力救済容認社会さながらの個人的行動を掣肘する何物もなくなるのではないか。
では、何をもって復讐を抑止するのか。復讐を単なる犯罪として処罰する現行刑法はいうに及ばない。本当に必要なのは、復讐を考えるものへの強権的制約ではなく、納得、得心させることではないだろうか。第一義的に遺族が、次いで社会が納得するような、意を尽くした説明が必要ではないだろうか。
今回の事件では、遺族が厳罰を強く求めるさまや、加害者の不謹慎な手紙が報道され、より一層社会の注目を集める結果となった。ために、極刑を求める声も強いと聞く。だから最高裁の判断には、どのような結論であれ、社会の大層が納得できる理由が示されなければならないと考える。納得がなければ、安田弁護士が危惧する「殺し合い」(江戸時代から復讐者への復讐は禁止されているから「殺し合い」にはならないが)という最悪の事態を招来するだけである。その納得とは、単に量刑だけではなく、裁判の全過程、加害者の反省の度合、あらゆる要素から導かれるものであると確信する。
私も、およそ一般的な感覚なのか、安田弁護士の行動には賛同できかねる。だがこの記事を読むと、氏は大変に職務に忠実な人物であるとの印象を受ける。だからといって、氏の行動への否定的な感想を変えるには至らないが。
準備期間が足りないという理由で、最初の期日に出頭しなかったことが、今回のバッシングの発端だが、そもそも安田弁護士は、弁論期日が決定した後に受任したのではないか。いかに膨大な記録を精読しなければならないからといって、期限が迫っているときに受任した責任は重い。それを不出頭という手法で、法廷の権威を損ね、裁判システムに対する国民の信頼を揺らがせた責任は重い。勿論、弁論が開かれる、つまり原審の無期が見直される可能性が出てきて辞任した弁護士の責任も同様である。
そして安田弁護士は、
二月下旬、初めて被告人と接見した。被告の話が事件記録と違い、驚いて弁護人を引き受けた。さらに自白調書と死体所見の食い違いを見つけ、被告の殺意に疑問を抱いたといい、自身の見解を、二度目の期日後に会見で披露した。過去、死刑事件を無期に減軽することに成功した有能な弁護士とはいえ、こんなことがあるのだろうか、という素朴な疑問を禁じ得ない。まるで『霧の旗』ではないか。最高裁の弁論までに関わった捜査関係者、法曹のだれも気がつかなかった真実が存在するというのだろうか。資料を見る立場にない私には根拠を示すことはできないし、そもそも論評する立場にはないのだが、「疑問だ」とはいえる。この点については、「破棄自判を避けるために未だ審理の行われていない主張を提示した」という味方が正しいような気がする。
安田弁護士は言う。
「復讐(ふくしゅう)したいという遺族の気持ちは分かる。だが、復讐が社会の安全を維持しないという視点から近代刑事裁判は出発した。もし、復讐という考えを認めれば殺し合いしか残らない」ならばどうすれば、「復讐という殺し合い」を避けることができるとお考えなのだろう。
日本で復讐が禁止されるのは明治6年2月、太政官第32号布告による。止まるところを知らない開化の嵐の中で、近代的刑事警察権を独占する必要に迫られた政府の決定だが、この布告を求める「伺」の中で、司法省は、
法明ラカニ律厳ニシテ人々畏避スル所ヲ知リ罪科ヲ犯スモノ少ク若シ人ヲ殺スノ兇悪アラハ必ス之ヲ逮捕シ之ヲ誅殺シ其罪ヲ逃ル丶ヲ得ス天下ノ者ヲシテ仇ノ報ス可キ無キニ至ラシムルハ司法ノ主務トスルトコロニ有之候と述べている。個人の復讐権(かつて美徳、義務とされた現実を踏まえ、あえて「権」といおう)を国家が代位することの宣言とも読める。
この布告から130年以上を閲し、時代は変わり、死刑となるべき犯罪の基準もまた変わった。それはいい。だが、個人の復讐が起こらないよう、犯罪者を処罰する国家の義務は変わっていない。もし国家が、この義務を怠っていると思われる状況が現れたら、国民は、国家刑罰権を信頼しなくなるかもしれない。前近代の、自力救済容認社会さながらの個人的行動を掣肘する何物もなくなるのではないか。
では、何をもって復讐を抑止するのか。復讐を単なる犯罪として処罰する現行刑法はいうに及ばない。本当に必要なのは、復讐を考えるものへの強権的制約ではなく、納得、得心させることではないだろうか。第一義的に遺族が、次いで社会が納得するような、意を尽くした説明が必要ではないだろうか。
今回の事件では、遺族が厳罰を強く求めるさまや、加害者の不謹慎な手紙が報道され、より一層社会の注目を集める結果となった。ために、極刑を求める声も強いと聞く。だから最高裁の判断には、どのような結論であれ、社会の大層が納得できる理由が示されなければならないと考える。納得がなければ、安田弁護士が危惧する「殺し合い」(江戸時代から復讐者への復讐は禁止されているから「殺し合い」にはならないが)という最悪の事態を招来するだけである。その納得とは、単に量刑だけではなく、裁判の全過程、加害者の反省の度合、あらゆる要素から導かれるものであると確信する。
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